大呆け

地下鉄の中で品の良い初老のご婦人を見かけた。
柔和な眼差しとピンと背筋の伸びた姿勢の良さ、そして手にしている紙袋が目を引いた。
紙袋に印刷された文字は世界的に有名な銀行のもののようである。「きっと資産家の御婦人なのだろう。海外債権でも持っておられるのだろう。」と思った。しかしその形状、大きさは底面の幅が広く書類を入れるようなものではない。お菓子を入れるのに適したサイズである。
「大口顧客向けの贈答品でももらったのだろうか?」些細な事から勝手な想像が留まる事も知らず次から次へと湧き出てくるのである。変なおっさん!
そんな事を妄想しているとたとえ普通のおばさんでも、いかにも上流階級の大奥様のように見えてくるから不思議だ。
自分勝手な想像を楽しんでいて、ふとその名前に疑問が湧いてきた。「あれ? あの銀行ってそんな名前だったかな。KeithじゃなくてChaseじゃなかったっけ?」
最近なにかにつけて記憶が曖昧なのである。ど忘れではなく曖昧なのである。ど忘れは思い出しさえすればそれに間違いないと確証を持つことができるが、曖昧なのはどうしようもなく確信が持てないのである。こうやってどんどん呆けて行くのだろうなあ。


帰宅後気になって調べてみた。
やはり銀行は【Chase Manhattan】であった。2000年に【J.P.Morgan】と合併し【J.P.Morgan Chase & Co.】となっている。「へえ〜、そうだったのか…。」 世事に疎いとこんなもんかなあ。
そしてあの御婦人の持っていた紙袋は【Keith Manhattan】であり日本のお菓子屋さんの名前であった。「紛らわしい名前なんか付けるな〜。日本の洋菓子屋なのになんでマンハッタンなんて付けるのだろう。」
という事はあの御婦人、Chase Manhattan Bankの大口顧客でもなければ海外債権を大量に持っているって訳でもなさそうだ。
あの上品そうな御婦人が今になって普通のおばさんに見えてきた。 …これって偏見?


いやそんな事よりも全ての記憶が曖昧になってきている事に驚きを隠せない。視力が落ち視界に靄がかかっているように、記憶の視界にまでも靄がかかっているような感覚である。目を凝らして物を確認しようとしても判然としないように、記憶の方も曖昧で確証が持てないのである。
それでもこうやって自覚している分には良いか。これで自覚が無くなったらそれこそ本格的なボケである。周りの人に迷惑をかけないようにしなくっちゃ。