薮漕ぎ

夕べT哉の友人が我家を訪れました。
本名は聞いたと思いますがいつもニックネームでしか呼ばれていないので、私もそちらで呼んでいます。
高校時代の友人なのですが仲が良くよく家を訪れてくれます。
彼は今大手コンピュータメーカーに勤め、サーバー事業部に席を置いているそうです。
友人の父親って事もあり、たぶん気を遣って話を合わせてくれているのかも知れませんが、いつもT哉そっちのけで二人で話しに華が咲く事が多いです。
昨年のT哉の結婚式でもメインのT哉夫妻をほったらかしで話し込んだりしていました。
夕べは奥三河の薮山からの帰りだったそうです。T哉もそちら方面をツーリング、私は週次業務の御在所から帰り丁度写真整理を終えたところでした。
意外と似通った趣味だった事が解りまたもやT哉そっちのけで山談議。年寄りのしつこい話に付き合わされて大変だったかもしれません。
北アなども行くそうですが、道に迷いようの無いところよりも踏み跡もおぼろげな薮山をうろつく方が好きなのだそうです。そして獣の気配に恐怖心を感じたり道を失い生命の危機を感じたりするのがまた愉しいのだそうです。一種のサバイバルゲームのようです。
私の場合、薮山ははっきり言って好きではありません。アプローチのひとつ程度にしか捉えておらず、メインの核心部を辿る為に必要なら仕方なく行く程度です。深い藪に囚われ現在位置が解らなくなるなんて恐くて想像すら出来ません。薮漕ぎは体力を消耗します。ドカ雪に囚われたのと同じで自分の体力のマネジメントが出来なくなります。それは遭難と同じ事です。まあ夏場なら充分な食料さえあれば時間と共に体力回復も図れるのでしょうが。
その彼が言うには冬は専らスキーばかりで薮山には行かないそうです。まあ当然でしょうね。冬に現在位置を失うのは遭難と同じですから。山にも人それぞれ楽しみ方があるのですね。
私の場合はやはり視覚的な楽しみのウエイトが高いようです。山の形や量感、その立体感と景観。これらが私を喜ばせるのです。そして常に行動時間とその進捗からその後必要と思われる時間と体力を常にマネジメントしながら行動する。おバカな事もよくやらかしていますが冒険をしようとは思いません。常にリスクの内容を把握していないと不意のトラブルへの対応ができません。リスクも想定できないまま冒険するというのは既に遭難しているのと同じです。これは冒険ではなく無謀というものです。
私には理解できませんが、彼のようにたとえ景色なぞ楽しめなくても体力の消耗とリスクに打ち勝ったという達成感、高揚感を味わうとそれが癖になるのでしょうか。冬は行かないというひとつの線引きはしてある訳なので、遭難して他人に迷惑を掛ける事もないのであれば、それも山の楽しみ方として大きなウエイトを占めているのかもしれません。