民主主義の原点

若い頃の一時期、石川三四郎に心酔していた。しかしながらその思想を実現する可能性がゼロに近いであろう事も自覚していた。
アナーキズムの実現には生活者ひとりひとりに成熟した人間性が求められる。また日本のように1億もの人口を擁する国では全員の意思を統一する事すら不可能である。
その代行方法として今の民主主義がある訳だが、こちらもアナーキズム同様、ひとりひとりに成熟した人間性が備わっていてこそ本当の民主主義が実現できるのである。
しかしながら現実はそれとはほど遠い。チャーチルの言にあるように、「民主主義は欠陥だらけだがそれに勝るシステムを我々は知らない。」訳で、より良く改めるように努め続けるしかないのである。
ずっと以前にも書いたが日本の民主主義は自ら勝ち取ったものではない。戦後米国より与えられたものである。
その所為か欧米に比べその運用がきわめてお粗末である。根底にあるのは主権者である民衆の心の中にある、昔ながらの封建的な考えである。「まつりごとはお上がやってくれるもの。自分ひとりくらい物陰に隠れていても見つかることはない。」私が呼ぶ処の【村人A根性】である。(名乗りもせず物陰に隠れ無責任な言を吐く人達の心理)
その所為か公共の為に個人がボランティア活動を行っても、「誰の許可を得ているのか。」「何の権利があってやっているのか。」「勝手な事をしてけしからん。」などと中傷するのである。その場合も決して自分の名をなのる事はない。いつも物陰に隠れて誹謗中傷だけを声高にするのである。
まるで自らは隠れていながら、社会を不安に陥れる通り魔や愉快犯と同様である。


昨日ゲリラ豪雨後の御在所Hikeに出かけた。帰りは鎌ヶ岳から三ツ口谷へ降った。土石流に見舞われお目当てのダイモンジソウは壊滅状態であった。
その荒れた谷の中、登山道整備に携わっているF山岳会の人達と遭った。もう何年も前から毎週末通い続け整備に当たられている。
この前の土石流により水路が変わってしまい、登山道保全の為に工事をしてくれているのだ。
台風も近付いておりこのままでは新たに造った道も、左岸沿いの旧道も流失の恐れがある。それで止むに止まれず通っている訳である。
その人達に向かって「余計な事をするな。」と言う人がいるそうである。
三ツ口ダムの上では役所の担当者からこれら作業についての問い合わせの張り紙が掛けられていた。文面では「国定公園内の景観維持の為作業に申請が必要で、目的などの詳細な内容を確認したい。」となっており、高飛車に止めろと言っているものではない。
もう何年にも亘り続けられている事なので、何を今更?とも思うが、役所も知っていながらお目こぼししていたのが実情だろう。ボランティアでやって貰っているものを、役所がやることになれば手間もお金もかかる。あくまでも想像だが、悪意有るタレこみがあり放っておけなくなったのではないか。そして善意のボランティアから作業内容の申請があれば、内容を確認し許可するつもりなのではないか。と推測している。
如何に官僚機構が硬直しているとは言え、実務に当たっている当事者は皆良心に恥じない仕事をしている。単に保身だけを考えている訳でもないだろう。


本当にタレこみがあったのか、あったとしてその当事者が誰なのかは全く解からないが、善意の人達に「余計な事をするな。」と言った人、こんな人にはそのような事をする可能性が充分備わっている。たとえそうでは無かったにせよ、そうなる可能性は充分にある。
「余計な事をするな。」という言葉と同時に「自然のままが良い。」とも言ったそうだが、自然がどんなものであるか解かっているのだろうか。中年夫婦だったらしいが、これもブームに乗った俄か登山者、俄か自然愛好家なのだろう。
鈴鹿の山は有史以来ずっと人と関わり合いながら今に至っている。それが鈴鹿の姿であり自然そのものなぞどこにも無いのである。そしてそんなに自然が良いのなら登山道など歩かずとも良いではないか。人の造った登山道を辿らせてもらいながら、その整備をしてくれている人達を非難するとは全く真意が解からない。
奥方が傍にいながら窘めてもくれなかったのだろうか。うちの場合私ががバカな事などしようものなら忽ち咎められてしまう。見得などよりも窘めてくれる事の方が有難いのである。もしかして奥方にまで見放されているのではないだろうか。返って憐れである。


役所もボランティアを歓迎する意志があるのなら、あの貼り紙に感謝の一文も盛り込んでおけば良かったのではないか。
あの文面だけでは処罰の対象とされているのではないか?と警戒されてしまうかもしれない。
いずれにしても歳出削減が課題となっている今後の行政には、民間のボランティアとの協力は避けて通れない道である。だれも整備をしなければ荒れる一方だし役所だけでやろうとすれば業者への委託となり予算が膨らむ一方である。
もうひとつ。
最近あちこちの山頂で山名を記した木製の看板をよく見かける。緑と灰色を基調としたペンキ塗りの看板で目にされた方も多い事と思う。
これをある地域のお役人はゴミとして廃棄し、そのゴミを投棄(設置)した人に怒りをつのらせていると聞く。間違いなら良いのだが、もしその通りだとしたらこれこそ硬直化した官僚主義の極致である。
例え自己顕示の結果の行動だとしても有難い事ではないか。それが他の登山者の助けになる事もある。全て行政だけで行うとすれば製造を委託する費用、設置を委託する費用とまたまた予算が膨らんでしまう。いつどこに設置する予定かを連絡して貰い、手が届かない所だけ行政が行えば良いのである。いや、話の持って行きようによっては全てやって頂ける事になるかもしれない。
行政に関わる人全てが「小さな政府で最大限のサービスを!」を常に念頭に置き仕事に励んで頂きたいものである。
そんな環境が整えば、我こそは、と名乗りを挙げるボランティア諸氏も数多と現れる事だろうに。



追記
ちょっと表現が適切でないので補足します。
「自己顕示の結果の行動」なんて言うと鼻持ちならない人のように聞こえます。御免なさい。
本人はそんな意識は全く無い筈です。それこそ人の為に善かれとの思いからでしょう。
芸術家にありがちな、「これをせずには居られない。」という心の底からの衝動がそうさせているのだと思います。結局その衝動も、精神分析学的には自己顕示欲、社会学的には自己実現の欲動って事なのでしょうか。
こう表現すると言葉が悪くなってしまいますが、心情的にはピュアな良心から来ている事は私にも解かっています。決して悪意からの表現ではありません。