「もしドラ」

夕べTVで上田惇生さんを見ました。就寝前の睡眠薬代わりが逆効果、おかげで目が冴えてしまいました。「寝れんくなってもうた。」
氏は今流行りのドラッカーの翻訳者として有名です。これも昨今のドラッカー流行りの一環である事はすぐ想像がつきます。
それにしてもこの【もしドラ】流行り、少々異常ですね。一日として【もしドラ】を目にしない日はありません。先日も喫茶店で私の愛読書である「少年○○○○」(漫画雑誌です)でも取上げられていました。なんでもタレントの何某さんを起用し映画化するそうです。若い世代に人気のある女の子が主演しているとなれば、若い男どもが観客として動員される事は間違いないでしょう。
少々安売りの感が無いではありませんが、これをきっかけにドラッカーの著述に触れる事に繋がるのであれば「それもまた好し。」ですね。
もしドラ】から【マネジメント】だけがドラッカーの著述であるかのように思われてしまいそうですが、この流れが他の著述へと広がって行く事を願っています。


米国経済の発展は経済学だけでなく経営学の底辺の広さにあると思います。この流れは19世紀末から20世紀初頭に労働というものを科学的に解析したF.W.テイラーに端を発しています。以後米国はどんなものでも科学的に観察することがお家芸になり、20世紀の爆発的な発展に寄与しています。数多とあるビジネススクールでは市場経済と経営に関する調査研究が連綿と続けられ、そこから色々なアイデアや経営手法が編出されています。
その中でドラッカーは一際大きな功績上げ大きな影響力も持っていました。そして他の著名な研究者と大きく異なる点を持っていた事がドラッカーをここまで有名にしたものと思います。
それは(私個人が思っているだけなのかもしれませんが)「ただ単に儲かれば良い。」というものではなく、「全ての人が幸せにならなければどんな科学も意味が無い。」と言う事ではないでしょうか。
ドラッカーの著述にはいたるところに「和をもって尊しとなす。」といった精神性が表われています。一種東洋的な、我々日本人の思想の根底に流れる儒教の精神に似ています。
本国の米国での評価よりも日本での評価が抜きん出ているのは、日本人が忘れつつある儒教の精神を思い起こさせてくれるからではないでしょうか。
そして今の若者達(儒教の精神が我々以上に希薄になっている世代)にも大きな影響を与えつつあります。この世代の人達自身の意識には上っていなくても、失くしてしまってはいけないものを維持し続けようとこの人達の本能が訴えかけているのではないか? と思ったりしています。


ドラッカーが亡くなってもうすぐ6年。相変わらず経済的に一人勝ちを目指す為の研究が多い中で、少し変わった流れが出始めています。
M.E.ポーターの論文の中に【シェアード・バリュー】なる言葉がつい最近出て来ました。日本語訳では【共有価値】となっていますが、【分かち合われる価値】と呼ぶ方がより正確な気がします。企業が産み出す価値の対極にある政府などが提供する価値も含めて言っているものです。「企業はお役所が提供するサービスとは無関係。」と突っぱねるのではなく、それを代替するサービスも商品とすべきであり、その結果企業のイノベーションによりローコスト、ハイクオリティのサービスが提供できる。
そうなれば役所が行うハイコスト、ロークオリティのサービスは必要なくなり、社会全体のパフォーマンスが向上する。とまあ大雑把に言えばこういう事です。
一企業のみのパフォーマンスアップに拘るのではなく社会全体へと視点が移っています。
ポーターさんもだんだんドラッカーのように社会全体を見るようになってきたのかなあ。なんて思った次第です。
偉大な人が亡くなれば必ずその跡を継ぐべき人が現れるものです。こうやって世の中は行きつ戻りつしながらもより良い方へ向かっているのでしょう。
日本の政治もそうであれば良いのですが。幼稚園児レベルの知能しか持ち合わせていない政治家先生方にも「もしドラ」を呼んで貰わなければなりませんかねえ。漫画版もあるようですがこちらの方が適していますかねえ。えっ、バカにし過ぎですって?
でもね、幼稚園児(特に民主党一年生議員)に大人(官僚)を使える訳ないでしょ。先ずIQの高さが違います。業務知識が違います。そしてその経験値が全く違います。民間企業でもよく起こる事ですが、そのギャップを越えて業務を遂行できるかどうかは上司の熱意にかかっています。たとえIQが自分の半分しか無い相手でも、熱く理想を語られればその熱意に打たれ全力を尽くそうと思うようになります。
幼稚園児程度の力しか無く熱意も無い。頭にあるのは政局だけ。だれがそんな者の為に尽くそうと思うものですか。