恥の文化

昨日久しぶりに宇賀渓を訪ねた。
年甲斐も無く少々歩き過ぎ、ヨレヨレになって車まで戻ると路上駐車が目立つ。宇賀渓への導入路だけでなく交通量の多い国道にまで駐車しているのである。さすがに車線を塞ぐまでにはなっていないが、ガードレールの切れた所の歩道を塞ぎ停めているのである。
宇賀渓の有料駐車場には充分空きがある。例えキャンプ客で無い登山者でも、宇賀渓の駐車場や売店の方々には何らかのかたちで世話をかけているのである。国道沿いの駐車場が満杯の場合、私なら不本意でも路駐なぞせずに有料駐車場に入れる。それが常識というものである。
なぜこうも非常識な中高年が多いのだろう。(すみません、いつも中高年を目の仇にしているように聞こえますが、実際山で見る人は殆どが中高年です。そしてこんな所に路駐するのは山へ行く人しかいません。必然的に路駐しているのは中高年って事になります。)
そして今の中高年って若い人達よりずっと可処分所得も多く裕福なのである。私のように昔の道具を使い、出費は交通費だけに抑えて慎ましく通っている訳ではない。有り余る財力にものを言わせなんでもかでもパッパカパッパカと買い漁る人達が行っている行為なのである。
これらの中高年の精神の根底にあるのは、「人に見られなきゃ何をやってもよい。」なのである。よく日本人の悪い所を指して言う「恥の文化」そのものである。
欧米人、特にキリスト教圏の人達は、「人が見ていなくても神は全てをお見通し。」と考えている。必然的に神の前で誠実たらんとする。この文化が信仰を持っている人達の根底を成している。だから、人が見ていようがいまいが恥ずべき事は慎む。そして信仰の無い者を警戒する。例え異教徒であろうとも信仰の無い者より有る者の方が信用できるのである。欧米人の日本人に対する不信感もこんな所から来ているのかもしれない。


よくよく考えてみると、今の中高年と呼ばれる世代の破廉恥さは今に始まった事では無いように思える。
戦後の驚異的な復興と繁栄を支えてきたこの世代の人達、物心がついた頃から綺麗事など言っている余裕はなかったのだ。恥も外聞もなくただただ食べる為とそして子供達を養う為に我武者羅だった人達なのである。そういった人種が、「紳士のスポーツ」であった(本当にそうかどうかは甚だ疑わしいが)山という領域に大挙して押し寄せてきたものだから、その違和感に馴染めないでいるのかもしれない。
そうと解れば、私自身も考え方を改めなければならない時に来ているような気がする。今のメジャーな中高年登山愛好家達の特性として恥の文化を受け入れる必要があるのかもしれない。「こういった性格の人達なのだ。」っと。


今はBric's流行りですが一昔前はNIESがもてはやされました。その頃の韓国、台湾、香港、シンガポールなどはどこも戦後の急速な発展に沸いていた日本を見るようでした。いつも商売に繋がるチャンスは無いか?と鵜の目鷹の目、儲かると踏めば積極果敢に攻め続ける。多少モラルを貶めても持ち前の愛嬌と大らかさでごまかしてしまう。あのバイタリティー! あれこそが戦後の発展を担ってきた、悪評高き団塊の世代、中高年諸氏の真骨頂です。
多少アクが強い人達ばかりですが(破廉恥な所も多いですが)、自然と親しみその歓びを次の世代に伝えて行く心強い橋渡し役を、多くの中高年が担ってくれる事を期待したいと思います。