電車の座席

本日帰宅時、地下鉄のホームで待っているとT市行きが来た。
近頃息が切れてきたのか、座って行けるように混んでいるT市行きをやり過ごし、空いているA駅止まりに乗る事が多い。しかし今日は先頭で待っている。やり過ごしても結局はA駅で次のT市行きに乗るのである。座れなけりゃ座れないで立ったままでも良いと、これに乗ることにした。
電車が止まり人が降りてくる。降り終わるのを待っていると隣で待っていた人達が降りる人を押しのけるように乗り込んで行く。見るからに私よりずっと若い人達である。そして我先に空いている席に駆けて行く。なんともあさましい姿である。いくら疲れていてもあんな恥ずかしい事は私には出来ない。そうまでしなければならないほど疲れているのだろうか。


T哉が高校に入り電車通学するようになったとき、何かの折に言ったことがある。「いい若い者が電車の座席なんかに座るなよ。」
T哉は3年間、なにげなく私が言った事を守り続けたそうだ。いや今でも電車の座席に座る事はない。私と一緒に乗る事があり、ガラガラに空いていても座っている私の前に立っている。座るよう促しても座る事はない。頑なに着座を拒むというより日頃の運動不足を補う為に立っているようだ。そうだよなあ、小中学校の頃のように激しい運動なんて全くやらなくなってしまったからなあ。私だって若い頃はよほどの事でもない限り座ろうなんて思った事はない。いや、若い者は立っているのが常識と思っていた。こんな考えは古いのだろうか。
今地下鉄の中を見回して見ると、若い者が大きな場所を占領して座っている。ただでさえ大きな図体の癖にそれに輪をかけて広い座席を占有しているのである。そしてあろうことか背中で腰掛けて足を通路の真ん中まで伸ばしている。全くもって親の顔が観たいわ。
年寄りが乗り込んできても全く知らんぷり。目を合わせないように寝たふりするのはまだ可愛いほうだ。目が合っても堂々とのさばっているのである。どんな躾けられ方をしたのやら、気配りなんて言葉すら知らないのだろう。
地下鉄の車両の両端には3席づつ計6席の優先席なるものが用意されている。そんなものを作るから、優先席じゃなきゃ席は譲らなくて良いと思うのではないか。いや優先席に座っていても老人に席を譲る人を見た事が無い。いつからこんなに心の貧しい人ばかりになってしまったのだろう。


今、五十路半ばも過ぎ電車の座席に座っても恥とはならない域に達した。それでもまだ座席に座るには勇気が要るのである。なにか周りの人達に失礼な事をしているような気がするのである。
座席を奪い合うようなあさましい姿を曝け出さずに済んでいるのは、週次業務の御在所通いのおかげかもしれない。
普段身体を動かさない人は摂取したエネルギーの備蓄が溜まる一方である。重い備蓄を常時持ち歩いていては身体への負担になるだけである。それに耐え切れず席の奪い合いに走るのだろう。自分自身に恥じない行いに徹する為、これからも御在所通いを続けるぞ。
(でも席が空いてたら座らせて頂きます。)