「そろそろ定期点検の頃だが…。」予約カードを見ると、なんと4月3日ではないか。
その頃はと言うと、年度替わりで何かと雑務がたて込んでいた時である。いやそんな事は理由にはならない。単に頭がボケかけていると言う事である。こういうチョットした事で自身のボケをよく感じる。まあ歳相応と割切るしかないか。
そんな訳で今日は急遽定期点検を受けてきた。半年毎、行く度に病院は大きく様変わりしている。救急病棟のあった北側は病棟毎ごっそりと削り取られ大きな駐車場と化していた。外から見ても全く景色が違ってしまった。北側から回り込んで行く為こちらに停める方が早いのだが、屋外では隣の車に擦られる心配がある。それでいつも通り
立駐へ。ここならその心配も無いし雨が降りだしても濡れない。(天気予報は快晴なのに朝からどんよりしている。)
受付を済ませ、早速院内探検に出かける。病院内に限らず迷路のような所を歩き回るのが好きなのだ。工事で大きく変わった所、改築された所を確かめるように自分の足で見て回る。これが面白い。まるで山の中を歩き回り空間認識を楽しむのとよく似ている。
私のかつての居所、第2病棟ももう何年も前に無くなっている。その頃の様子と比較してどこがどう変わったのかを立体的に想像するのである。頭の中でパズルを楽しんでいるようなものである。


その新たに出来た通路の壁に一際目を引く絵がかかっていた。凄く明るくそして優しい絵である。
100号程の大きさで紅葉に輝く森の絵である。公園内のような池か小川がありちょうど乗鞍の一の瀬のような雰囲気を感じさせる絵である。幹が皆白樺のようなのに赤の紅葉があるのはチト奇異ではあるが、そんなことはどうでも良い事で、なにかほっとさせてくれる優しい絵である。
近付いて見ると水彩画だった。画家の名前なぞどうでも良い事ではあるが、M.Hasegawaのサインがある。
その周りにもいくつかの油彩、日画が飾れていたがこの絵の陰に隠れてしまっている。
昔からの私の趣味かもしれないが、水彩の優しさ軽やかさに比べ、油彩や日画の顔料はしつこく重い。それは暗さを暗示する。病院という場所にはこのM.H氏の絵のようなものが最もTPOを得ているように思う。
偵察を兼ねて他のフロアも見て回ると、先程のM.H氏の水彩画がいくつかある。どれも作風やモチーフは同じで新緑の頃のものや、鶴舞公園内の花木や花壇の描かれたものがあった。そしてどれもが優しく、ほっと落ち着く絵である。
絵とは不思議なものである。その1枚の中に作者の思い、人生が凝縮されている。こんな事を言うといかにも形而上学的で眉唾と思われるかもしれないが、全てを表す事は出来なくても或る一面は刻まれているように感じる。
絵から彫刻に転向し、それもせいぜい趣味の世界で終わっている私が言うのもおこがましいのですが…。


日本はアニメ大国である。その下地が今は亡き手塚治虫氏と彼を慕って常磐荘に集まった漫画界の草分け達のおかげであることは周知の通りである。そしてそれをひとつの文化、産業として支えてきたのが我々漫画ファン達の力である。ちょうど団塊の世代を筆頭に世代を越えてこの文化を支え続けているのである。
この漫画作家達、殆どの人が画家を目指していた人達である。しかし貧乏絵描きが生活出来るほど日本という国は経済的にも文化的にも豊かではない。夢破れて絵描きを諦めた人が多い。漫画という大きくデフォルメされた絵の中にでも洗練されたデッサン力を垣間見ることが出来る。見ていても本当に絵が上手い。これほどの人達でさえ画家を諦めたのだから私など最初から断念していて正解だったな。とよく思う。
しかし技術だけで良い絵が描けないのと同様、漫画もデッサン力だけでは駄目なのである。1コマの中に入れる構図、キャラクターの動きなどの絵としてのエレメンツ以外に物語性、思想も必須なのである。
第一人者であった手塚氏なぞ絵も上手かったがそれ以上に壮大な物語性、思想があった。【火の鳥】【アポロの歌】などに見られるように、生命と宇宙そして時間という異次元の世界まで広がる物語の中に強烈なメッセージを発しているのである。


……世の親御さん達は子供に「漫画なぞ見るな、勉強しろ。」と仰っているようですが、学校の勉強がどれほど役立たないかご存知の筈でしょう。目先の成績より子供にとって何が最も重要な事かご存知の筈ですよね。私は嫌がる子供達に前述のシリーズ以外に【アドルフに告ぐ】も読ませました。例え絵ばかりだと言っても、学校、習い事、その他で忙しい子供達にとって、これだけの長編は時間的にも大変な事だったと思います。それでも学校の授業で得る中身のない知識よりずっと濃い心の糧になったに違いないと思っています。……


そして各作家はそれら以外に強烈な個性をもっており、お互いが切磋琢磨しながら個性に磨きをかけていった。それがまた次世代の作家達に影響を与え、より一層大きな文化のうねりとなっていった。
ちばてつや氏の心理描写はピカイチ。時々本当にドキッとさせられる。まるで映画を観ているようだ。
彼の作品は少女漫画も含めて殆どの単行本を持っていた。引越しを重ねる内に全て四散してしまったが。
最近(もう最近ではないかな?)の作家では鳥山明氏。空間、スピード(動き:ムーブマン)の扱いがピカイチ。
中にはメチャクチャ絵の下手な作家もいる。○図かずお氏である。平面的な絵に全く動きのない絵。構図なんて全く考えていないのではないかと思ってしまう。しかし漫画に限らずどんなものでもテクニックの無さはハンディだけでなくアドバンテージにも成り得る。本人もそんな点を自覚していたからこそ独自の世界とそのファンを獲得できたのだろう。(私自身ははっきり言って嫌いですが。)


そんなこんなで毎週喫茶店で漫画の読み溜めをしている。ビッグコミック2誌、ヤングジャンプヤングマガジン、少年サンデー、少年マガジン
しかし最近の漫画は面白いものが少ない。いや殆ど無い。比較的面白いものが多いのはビッグコミックだけ。他は先ず絵が下手。そしてSex & Violence ばかり。そんなものしか売れなくなってしまったのか、それとも作家と出版社が読者をそうさせてしまったのか。この流れがアニメ大国日本の凋落に繋がるのではないか?と危惧しているのは私だけだろうか? 同じ性を扱っても神様である手塚氏は【アポロの歌】のような壮大な物語を提供してくれたのですがね。


○図かずお氏の例えの通り、テクニックは大事ではあるが必須ではない。テクニックさえあれば良い作品が出来ると思うのは本末転倒である。写真も絵である。カメラの出現で「あるがままに描く。」という技術は道具が代行してくれるようになった。面倒な縛りから開放され、より一層作者の思いが1コマに収めやすくなったにも拘らず、自らテクニックという縛りに囚われている人達がいる。「ピンが甘い、露出がどうの、ブレがこうの。」度を越して見苦しいのは別として、そんな事よりせめて「構図がどうだ、色彩配分がどうだ、フレーミングがどうだ。」程度に治めて貰いたい。最も重要なのは「その絵で何を訴えるか。」である。本人が意図しなくても自然のものは雄弁に語ってくれる。それをそのまま切り取るだけで充分に良い絵になるものである。多少何かを強調したいのならそれを意識して切り取れば良いではないか。デジカメの世界ではソフトウェアでいろんな効果が作り出せる。テクニックの不足も後処理である程度のリカバーもできる。それなら楽しんでいろんな角度からいろんな構図で撮ればよいではないか。画素数も多いのでフレーミングが不味くてもトリミングで思ったように切り出せるし。


M.H氏のあの紅葉の水彩画のように、見る側がほっとするような優しい絵を撮りたいなあ。
まあ私はいつも何も考えず、ドキッとした時にだけシャッターを切っているので、あまり偉そうな事はいえませんが。