モジリアニ

毎度毎度、職場と我が家の往復の繰返し。
そんな毎日の中で唯一地下鉄の中だけが新鮮な情報を私に届けてくれる。
今日の発見は…、【おさげ髪の少女】モジリアニの代表作のひとつだ。名古屋市美術館の展覧会の広告のようだ。
昔は何かにつけよく観にいったなあ。海外から来るものなぞ時々名古屋をすっ飛ばす事がある。そう、やはり名古屋は昔から文化的には田舎であったのだ。文化的僻地を恨んでも仕方が無い。どうしても観たい場合は東京だろうが京都だろうが出かけて行ったものだ。お金が無い時は夜行鈍行で行ったりもした。早朝に着き時間つぶしに上野公園を散歩していて、お巡りさんに職務質問された事もある。余程汚い格好だったのだろう。確かモジリアニもそうやって出かけた記憶がある。
絵も嫌いではないが、どちらかと言うとやはり彫刻の方に力が入る。そんな私にとってモジリアニは特殊な存在だった。彼の作品は絵と言うより【カンバスの中に閉じ込められた彫刻】或いは【窓の中の彫刻】なのである。一般的な絵画に見る平面的な形でなく、実在する形、量感が観る者に迫ってくる。私のように色彩や表層的な陰影よりも形そのものに心を動かされる人種には、モジリアニの作品は絵というより彫刻そのものなのである。いや、渇いた彫刻よりももっと艶めかしくエロチックささえ覚える。生身の肌のように指で押すとその弾力で撥ね返ってきそうな、またその温もりさえ伝わってきそうな気がする。
量感と質感、そしてムーブマン。多くの肖像画に見るS字型、これが動きを感じさせ生命感を溢れさせている。
車内に貼られたポスターの中の小さな絵でさえもその生命感は溢れ出ている。
時間を作って観に行くか。そして若い頃の感性をもう一度揺り動かせてみようか。
そういえば彫塑の仲間とはここ暫く疎遠である。リタイヤ後は終日粘土遊びも良いなあ。


名古屋市美術館と言うと【北斎展】もやっていた。この前の日曜が楽日だったようだ。これも「行ってみよう。」と思いながらつい行きそびれてしまった。文化的僻地の根源は自分自身の心の倦みにあるようだ。
この北斎も好きな絵師である。洋画の手法も好きではあるが、浮世絵などの界面を輪郭線でかたどった絵も好きである。一種漫画に通じる所があり、簡略化した故の完成度が感じられる。何事にも言える事だが、手段に制限があればあるほどその成果物は簡略な中にも美しい調和があるものである。
北斎の作品の中でも有名な【波間の富士】。この作品にも何故か彫刻的なものを感じる。モジリアニに形そのものを感じるのとは逆に、負の形というか、空間の広がりそのものを感じる。そしてドキドキとするようなときめきを感じるのである。
このときめきはどこから来るものなのか。重力に引かれ空間から落ちてゆくような、その時の無重力感とその不安定さ、こんな事が思い浮かぶ。大波の谷へ滑り落ちてゆく舟がそう感じさせるのかもしれない。そうだ、これはスキーに通じるものがある。スキーは落ちてゆく事を楽しむスポーツである。雪面に立っている時は常に感じている重力も、落ちている時は無くなり無重力となる。人は常に重力を感じている時に安定感を感じ、それが感じられないと不安定と感じる。エレベータの降下時に胸がフワッと感じるアレだ。落ちてゆくような滑降時の重力からの開放、ギャップに撥ねられ空中に投げ出された時の重力からの開放、開放故の不安感。これらの感覚が【波間の富士】から感じられるのである。ニュートン力学なぞ知る由もない北斎の世界の中には、空間と重力という宇宙が閉じ込められていたのである。


なんだか支離滅裂になってきた。
が、日本から遠く離れたフランスで、印象派の画家達の心を捉えたのは紛れも無くこの感覚だったのだろう。
遠近法によるごく当たり前の絵の世界しか知らなかった若き画家達に、一枚の和紙の中に閉じ込められた小宇宙を知らしめたのが北斎なのである。