金曜夜11時から【メントレ the Giant】というTV番組があった。
週末の夜、仕事から離れ調べ物をしたりWeb Log Diaryを書いたりした後、布団にもぐりこむと丁度この番組の時間帯なのだった。
毎週著名人をゲストに迎え、ゲストのお勧めの三っつの料理の内どれが食べたいか選んでもらい、ホストであるTOKIOのメンバー4名の内二人以上にそれを当てられると、ゲストは食べる事ができず、当てた側が食べられる。という一種の心理ゲームである。番組名のメントレと言うのもメンタル・トレーニングから来ているらしい。
著名なゲストといっても芸能オンチのこの私、どんな人なのか全く解からないが、生い立ちから現在に至るまでの略歴も紹介してくれるので多少は芸能通になったような気もする。
それよりやはり目を引くのはゲストが紹介する料理である。特に食に対して拘りがある訳ではないが、やはり見ていて楽しい。
いつか子供に言われた事がある。「お父が見るTVって食べ物ばかりだね。」そんな事思っても見なかったが、そう言われればそんな気もする。
元来、口が卑しいので食べ物に目が行ってしまうようだ。そのくせ高級素材の味なんて全く解からない貧乏舌なのである。
子供の頃に飢えの恐怖を味わった者には、どんな物でも美味しく頂けるという特技がある。そして美味しそうな物は見ているだけでも幸せになれるのである。
では何でも好き嫌いなく食べられるか? と言うとそうでもない。 全く受け付けられない訳ではないが、食べたいと思わないものも結構あるのである。甘藷、南瓜、茄子などがその典型である。
育ち盛りの子供を飢えさせないように。と祖母がよく作ってくれたものに芋粥があった。粥というより重湯の中に銀杏切りの甘藷がゴロゴロ入ったもの、という表現の方が正しい。さすがに不平を言うほど我儘ではなかったが、食事に甘い甘藷はどうも苦手だった。そのおかげか未だに焼芋でさえも苦手である。また夏場のおかずと言うと南瓜と茄子の煮付けが定番だった。茄子の灰汁でなにもかも真っ黒。見るからに食欲を萎えさせるものだった。(文句ばっかりでゴメンね、天国のおばあちゃん。おかげで飢えもせず生きてこられました。)
・・・食傷気味になるのはまだ幸せな方だ。うちのかみさんはお茶の葉っぱを齧って飢えを凌いでいたと言う。かのA・ヘップバーンでさえもチューリップの球根で飢えを凌いだという。・・・
この【メントレ the Giant】は時間帯が変わり日曜午後9時から1時間番組に出世したそうだ。これも【あるある大事典】の捏造事件のおかげらしい。その所為で金曜の就寝前の楽しみが無くなってしまった。


確かに食べ物の番組ばかりに目がいってしまう。しかし同じ食べ物を扱ったものでも心情的に受け付けないものもある。
【大喰い選手権】などと言ってとんでもない量の摂取を競うものである。
食とは神聖なものである。生きていく上で不可欠なものである。それを遊びの道具とするとは何事か。そんな馬鹿な事を思いつく輩の人間性を疑う。およそ品性とは縁の無い輩である。地球上には今現在飢えの為に死んでいく人がいるというのに。
食物自体他の動植物の命を奪って得たものである。そう思うと自分が生きる為に必要最低限のものの摂取に留めておこうと思う筈である。生きる為には常に殺生という罪を犯し続けなければならない。それなら少しでもその殺生を減らそうとは考えないのだろうか。罪を犯し続けながら生きているのなら、せめてなにか善行を行なおうとは思わないのだろうか。
食事の前に手を合わせて「頂きます。」と言う習慣。これこそ感謝と贖罪の表現だと思いませんか。食への謙虚さをいつも持ち続けたいですね。


太一君、試食の時本当に美味しそうに食べますね。あの嬉しそうな顔を見るとほっとします。心の底から美味しいと思いながら食べる事、これが最大の感謝のしるしだと思います。