Power for Living

今に始まった事ではないが枕元に何冊かの読みかけの本が置きっ放しになっている。
私の習慣として読書は休日の寝起きにする事になっている。それもベッドの中で。
冬場は本を持つために布団から出している手が冷え切ってしまい少々辛いのだが、今年は暖冬のおかげで全然辛くない。
置いてある本の中で読む気のないものが一冊ある。たぶんゴミ箱か古紙回収へまわる事になるのだろう。


暫く前 新聞の広告欄で、著名人による紹介と希望者への無料配布の案内を目にした本である。【Power for Living】内容については具体的な説明は無かったが、そこは【無料】という言葉に免疫の無いtanuoさんである。早速Netで申し込んでおいた。
数日後届けられた小冊子を手に、調べ物も早々に切り上げ早めにベッドイン。(と言っても本を読む為である。)
読み始めて…「なんだ、こりゃ?」
聖書の宣伝の為の本だった。何某財団とかが慈善事業として行っているらしい。無料配布を受けた人にその後何かを強要する訳でもないし、聖書を読む読まないは個人の自由。別に弊害が出ている訳でもないのでカルト的なものでもなさそうだ。
それに多くの人がそれをきっかけに聖書と親しみ教会に通うようになり、それが人生の転機となり今までの悩みと決別できた、生きる力を与えられた、と言うならそれはそれで素晴らしい事だと思う。
その人達にとってそれほどに素晴らしい事であっても、私には到底馴染めないものなのである。
どう考えても神の存在なぞ不可解なのである。各界において、理路整然とロジカルな思考を行っている人が、どう考えてもロジカルとは言いがたい信仰を持っている。それが私には理解できない。整合性が全く無いのである。
だからといってその人達がおかしいとは私には言えない。その人達はそれぞれの世界で成功も収め人々からの尊敬も受けているのである。そして私自身もそれを是としているのである。であるから当のご本人方の思考ロジックが尚の事理解できず、不可解なのである。
信仰を持っている人にとって至極あたりまえの事が、信仰の無いものには耐え難い不条理なのである。この論理的ギャップは永遠に埋められる事はなさそうだ。
別の所でも触れた事があるが、私自身神に準じるものの存在を感じる事もある。しかしそれは信仰を持っている人が感じるような擬人的なものではない。どちらかというと原始宗教に近い、自然神、太陽とか火とか山とか…。なにかにつけて私が謂う所の【大いなる力】である。これはごく自然な物理現象と言ってしまえるものに近い。ただそのタイミングがなにかしら超常的なものを感じさせるのである。
お互い相容れないものを持っていても、尊敬に値する人には敬意を持って接する。
ただそれだけで果たして良いのであろうか。私の理解力の乏しさの所為で私自身がとんでもない過ちを犯しているのではないか。そう思う事もあるが、やはり私にとっては理解できない不条理な事柄なのである。