S司型人間の薦め。

「このお釜、持ってって良い?」
「良いけど、これってオマエが使ってたヤツか?」
「解らん。けど、持って帰ってきたから三つある筈。」
「じゃあ良いわ。」
「だけど何処へ持ってくんだ?」
「学校。」

お釜が三つというのは、家で使っているもの、T哉が学校の寮で使っていたもの、そしてS司が東京で使っていたもの、の事である。
S司は既に寝袋を研究室に持ち込んでいる。お釜も持って行けば、暫くは泊り込みが可能となる訳である。
まるで子供の秘密基地ごっこか、キャンプをやっているようである。
毎晩帰宅が12時前。通学時間の無駄というより通学自体が面倒臭いのだろう。この無精さ、一体誰に似たのだろう? あっ、俺か。
それにしても暢気なものである。レポート提出はあるようだが、定期的な試験により成果を求められる訳ではない。しかし年間通じての成果がなければその結果が得られないだけである。楽しむのは良いが自己管理に弱さを持つS司の事、さてどうなることやら。
もともと強いられて勉強するタイプでは無い。だから中学の時には通知表に【1】を2つ頂いている。人に何を言われようと独立独歩、聞く耳を持たないと言うより気遣いが出来ないのである。
そんな落ちこぼれでも拾ってくれる所があり、今こうやって心底楽しみながら学業に励めるのは幸せな事である。
そんな不器用なS司と対称的なのがT哉である。こちらは万事卒が無く言わば優等生である。取りこぼしは無いが、ある程度の点を稼げばそれ以上やろうという気は全く無い。
全て効率よく力の配分が出来るタイプである。社会人として組織の中で要領よく振舞えるタイプであるが、こういったタイプは強迫観念で勉強をしてきた人種であり、どちらかと言うと私もそのひとりである。
特に成績の順位を気にする訳ではないが、許容範囲から大きく逸脱した時は「やべぇ!」とばかりシャカリキに、後期中間までに充分稼いでいたら後は手を抜き、優、優、優、可、に収めるタイプなのである。
その名残りか、未だに試験の夢を見る事がある。「ゲッ、何もやっていない。テキストを見ても何の事か解らない。おまけに何百ページもある。とても間に合わない!」と、真剣に夢の中で焦っているのである。
目覚めてホッとするのだが凄い冷や汗をかいているのである。ケツの穴の小さい男とは私のような者の事を言うのだろう。
T哉や私と違い、S司には打算が無い。ただ知りたいから、楽しいからという純粋な興味からやっている。
これが学問の本来の姿だろう。好きだから時間を忘れて打ち込める。好きだからその成果に恣意的なものを挟み込むような事はしない。
こういった適正を持つ人は世の中には少ない。少ない上に今の教育制度では篩いの目からこぼれてしまい、大学などの専門的な研究機関への道を絶たれてしまう。たまたまS司は運が良かっただけで、世の多くの天才達が磨かれないまま路傍の石として生涯を終えてしまうのだろう。
人間の能力差なんてたかが知れている。人の業績の多寡を決めるのは仕事への執着である。四六時中それに打ち込む事ができるか決められた時間だけをそれに割くか。革新的なブレークスルーなんてサラリーマン根性でいる者に起こる訳が無い。日々弛まぬ努力を続けている者にのみ神様が与えてくれるものである。
そして残念な事に小利口な者というのはその努力が出来ない人種なのである。その典型がT哉である。何事も飲み込みが早く労せず理解してしまう。ところがその時点で理解しようと努力するのを止めてしまう。それ以上は深く掘り下げられないのである。表面的に理解したつもりでも実は解っていない場合が多い。
S司のように人よりオツムの弱い人間は、理解も遅いがある程度理解しても未だなにか釈然としない所がありそれさえもしっかり理解しようと努める。当然何事にも時間がかかる。それで余計に「あいつはトロい。」と言われる。しかしこうやって深く掘り下げる事から奇抜なアイディアが浮かぶのである。この私もS司にはよく驚かされる事があった。幼い頃からその芽は既に育っていたのである。
そして自分自身のトロさを認識している為至って謙虚である。トロい自分を支え続けてくれたお兄ちゃん(T哉)への感謝の気持ちはずっと持ち続けている。
どちらが優れていると言う事でなく、これがそれぞれの個性なのである。それを無理やりT哉型の人間に育てようとしているのが今の教育制度のようだ。それはそれで必要なものではあるが、それとは対極にあるもうひとつの宝物を押し潰しているように思う。結局このS司型人間が世の中を底辺で支えているのである。
エリート管理職、エリート官僚ばかりで社会が成り立ちますか? 子供達全員がエリートを目指す教育なんておかしくないですかねえ。農家を目指す子供、職人さんを目指す子供、個人商店を目指す子供、それぞれが興味を持ったものに向かって行けばそれで良いように思う。
全ての教科を【優優優可】で収める姑息な人間より、【優優優優】もあれば【不可不可不可不可】もある。そんな人間を育てる事の方がずっと大切な事のように思う。
大丈夫、例え【不可不可不可不可】でも、自分の好きなものを伸ばす為にそれが必要になれば、自ら励むようになる。評価が不可なのは本人が今は不要と判断しているからである。不要なものを無理やり詰め込むより好きなものをどんどん伸ばす。この方が本人にとってずっと意味のある事だと思う。

しかしS司のやつ、楽しそうで良いなあ。私も経済的に余裕があればあんな生活が送れただろうに。
自分に出来なかった事を子供に与える。これで良いのか。子供達もまた自分に出来なかった事をその子に与える。こうやって子々孫々幸せな巡り合わせが続く事を祈りたい。