時の流れ

龍馬伝NHKの今年の大河ドラマ
篤姫さんは欠かさず観ていたのに、これは一度も観ていません。
観たいという気が全く起きません。たぶんその訳は演じている役者さんがカッコ良すぎる所為だと思います。先天性ブ男のtanuoさんはイケメンが大嫌いです。福山某氏に個人的恨みがある訳ではありません。しかしエエ男やなあ、羨ましい。
それと、こういった英雄を描く場合脚本自体が度を過ぎた英雄に仕立て上げてしまう事が多いのです。一度も観ていないので決め付けなのかもしれませんが多分そうだろう、だから余計観たくない、と短絡的になってしまうtanuoさんなのです。
篤姫さんの場合は特段英雄に仕立て上げていることがなく、その時代、その立場で彼女が採れる範囲で努力し続けている姿に共感を覚えたのが、このへそ曲がりの私が見続けていた理由かと思います。
歴史の中に数多といる全ての英雄についていえる事ですが、その人ひとりで世の中を動かした訳ではありません。時の流れがたまたまその人にその偉業を行わせたというのが真実だと思います。そう仕向けられた中でそれを行った当人も立派には違いありませんが、なにもかもその人が主導して行ったと思い込むのは行き過ぎのように思います。
確かに龍馬さんはエライ。しかしそうさせたのは龍馬さん自身ではなく歴史がそうさせただけの事です。特定の個人の力だけで時代が変わるものではありません。
昨日の映画【点の記】にしても余計な脚色が多すぎました。そうしなければストーリーが成り立たないのかもしれませんが、もっと淡々と事実だけを連ねて行くのも良いと思います。脚本家が鑑賞者に「こう感じてくれ。」と感想を押し付けるのではなく、事実のみを再現し観賞する人個人個人の感じ方に委ねるのがこういった作品には適しているのではないかと思います。実際新田次郎の作品の方はそういった手法を取っています。
龍馬伝、一度も観ていない私ですが、一般的な英雄を題材とした作品と同じく脚色のし過ぎだろうと思います。決して主演がイケメンだからという理由だけではないのです。(いや、やはりそれが最大の理由かな? クソッ、羨ましい。)
時の流れが特定の人を英雄に仕立て上げてしまう。歴史を紐解くと全てがこのセオリーどおりであった事が解かります。結局ひとりひとりの力なんて知れたものなのです。たまたまめぐり合わせである一人が英雄に仕立て上げられているだけなのです。


ジーグムント・フロイト精神分析学の始祖、それまで医学的に精神を科学する事など考えられなかった時代に突如現れて数々の偉業、成果を成し遂げた偉人。…一般的にはこう思われているかも知れませんが実はこれも時の流れがフロイトをして事に当たらせただけの事なのです。
欧州には中世から厳格なアパルトヘイトが存在しました。そのユダヤ人社会の中で精神分析は医療のひとつとして連綿と続けられていました。外の世界に知られていなかっただけなのです。
アパルトヘイトの存在自体が公けとなり、その存在も希薄になりかけた時代、その時の流れがフロイトをして公けの世界にその情報を発信させただけなのです。
こう言ってしまうと英雄を否定し、実も蓋も無くなってしまいますが。
英雄って周りの人が待ち望み過ぎた結果、そう仕立て上げているのかもしれませんね。
英雄待望論、今の世の中(特に政界、経済界)って当にこれが待ち望まれている時なのかもしれません。