三つ子の魂

という訳ではありませんが、幼い頃受けた影響ってやはり大きいですね。
先日の【東川崎小学校】ですが、あの辺り地図では東川崎町となっていました。すぐ近くには川崎重工が在りそこから名付けられたものと思われます。
登校時より早い時間帯には神戸駅から大勢の人が吐き出されそれがまるでデモ行進のように勤務先の工場へ向かっていた事を思い出します。あれが今の通勤ラッシュのはしりだったのでしょう。
一般の人達にはバイクのカワサキで馴染み深いと思われますが、東川崎町川崎重工は当時は造船が主でした。戦後復興期の一翼を担っていたのです。
尤も今は造船は止めてしまい、防衛産業、航空宇宙産業等が主力のコングロマリットとなっています。
その少し南側、和田岬には三菱重工があります。こちらも造船は規模縮小、防衛庁御用達の潜水艦はやっていますが確か佐世保でしかやってないんじゃあ?
いずれも戦前から重厚長大産業のライバルで、この地では造船業でしのぎを削っていました。戦闘機でもしのぎを削っていたのは宮崎駿の【風立ちぬ】でもご存知かと思います。
その三菱重工造船所の前身である内燃機製作所に加藤文太郎が勤めていました。私が生まれる30年ほど前になりますが。
しかし同じような景色を眺めていたのは間違いありません。私も小学校へ上がる前から姉達に連れられ六甲の山域に毎週のように入り込んでいましたから。

東川崎小学校の記憶で今でも鮮明に残っているものがあります。皆が講堂に集められ映画を観せられました。当時はまだ珍しかったカラー映画で、二人の男がザイルで繋がり岩山を登っているものです。途中落ちるシーンもありハラハラドキドキ。今にして思うと、レビュファの【星と嵐】だったのだろうと思います。今の時代なら小学校でこう言った映画の観賞もあるでしょうが、当時と言う時代にしてはかなり斬新な取組みだったと思います。尤もそれが普通と思っていた私は大いなる田舎の名古屋に来てその違いに大いに落胆したものです。
この映画から受けたインパクトはかなり大きかったと思います。未だに覚えているくらいですから。しかし当時の私は自分とは全く別世界の事としか考えられませんでした。
とは言え山にのめり込む為の下準備はこうやって幼い頃から仕組まれていたのだと思います。

もう一つ、同じく小学2年くらいの頃地域のいろんな学校から一部の人達が集められ、そこで「何でも良いから好きなものを造るように。」と粘土を渡された事があります。
何でも良いと言われても何も思いつきません。その場所が山の麓の丘陵地帯で間近に急峻な山が迫っていた為か、そんな地形に何かを感じたのでしょう。急峻な岩山とその下の牧場、街などジオラマのような物を作り始めました。それが面白くて面白くて有頂天になっていました。途中で時間切れとなってしまいましたがそれがとても残念だった事を思い出します。
これも後に彫刻を始めるようになってから岩山の形の面白さに魅せられるようになった事への前触れだったのでしょう。

こうやって幼い頃からひとつづつ、無垢な心に刷り込まれて行ったものが今の私の礎になっているのだと思います。

そう言えば昔同じようなことを述べた事があるのを思い出しました。
あれは・・・、そうそうこれでした。↓

http://whike.net/bangai/yama.htm