地図遊び

地図を見るとついこれをやってしまいます。
何てことはない、ただ自分の頭の中で認識している空間と地図とを照合しそれらが合致しているか確認するだけなのですが、新しい発見が次々と見出されそれが楽しいのです。
これは山岳地帯だけでなく道路も含めいろんな地点の位置関係を再確認し、それが楽しいのです。
最近では地図上に新しい道路や建造物が増えそれが頭の中の空間認識と不整合を起こし戸惑う事が増えました。それでも難解なパズルを解くようにどこがどう変わったのか推測し無理矢理帳尻を合わせ自分を納得させています。少々消化不良気味ですが、それも含めて地図遊びは楽しいものです。

つい先日新名神高速から大阪、神戸方面まで目が行ってしまい、幼かった頃の記憶を辿りながらJR神戸駅付近を徘徊してしまいました。
地図上ではその頃の道路とかなり配置が変わっており戸惑う事ばかり。市電(路面電車)はかなり昔に廃止されその線路跡も整理されビルや道路に変わっているようですが、なんとなくその面影も残っています。自宅のあった辺りは、おそらくこの辺りだろうと見当は付きますが定かではありません。
古い寺社等はおそらく変わる事はないので湊川神社から大倉山、その横の神戸大は区画ごと大きな変化はないものと思われます。
「この経路で宇治川沿いに山の中に入って行ったのかなあ?」などと朧げな記憶と地図を照合させます。
一方海岸近く、小学校は?と地図を追って行くと小学校が見当たりません。航空写真に切り替えて建造物の状況を確認しますがやはりそれらしいものがありません。
細い路地を辿って行った先にあった筈。その途中に【大慈ひょうご云々こども園】なるものがあり、これが私が通っていた【大慈保育園】の今の姿なのでしょう。
それならその先にあった筈・・・。
東川崎小学校で検索すると簡単にヒットしました。が、現在では他の2校と計3校が統合され神戸市立湊小学校となったようです。場所も左程遠くない北側にありました。
そうですよねえ、記憶にあるのはおよそ60年前の事ですからねえ。
頭の中で平面の地図遊びをしているつもりが、時空を超えて60年後の地図と出会うことになろうとは。

無線学校を卒業した時、一度神戸へ行った事があります。その時はまだ存在していました。
小学2年の時の担任、沢野先生を訪ねて。この先生には大きな影響を受けました。
年齢の割に早熟だったのか、作文で1年生の時の担任をかなり辛辣に批判したらしく、その他にも学校の矛盾点なども生々しく書き連ねてあったそうです。それで保護者(祖母)と色々話し合ってくれたそうです。
その頃いきなり祖母が木琴を買ってくれました。生活に余裕なぞ無い筈なのに?と思いながらも深く考えないのが能天気な私の真骨頂。
これは後に姉から聞いた事なのですが、「音楽か何か打ち込めるものがあった方が良い。」と沢野先生からの提案があり、それで買ってくれたそうです。
そうまでしてもらいながらも私の興味はやはり絵画の方に向いてしまいました。沢野先生は凄く熱心な先生で当時の他の先生の授業とかなり異なっていました。元々評判も高かったのでしょう。神戸市内の他校から多くの先生方が沢野先生の授業を参観に来る事もありました。
専門が美術であったそうで授業で幻灯機(今ではスライド投影と言う方が一般的?)を使う事もありました。今ではごく当たり前に使われていますが当時はまずありません。
その中で最も私が影響を受けたのがパウル・クレーの絵。沢野先生自身もパウル・クレーの信奉者だったようです。漆黒の中に浮かび上がる鮮や且つ幻想的な絵は一目で私を虜にしてしまいました。
元々絵は好きでしたから、「世の中にはこんな素晴らしい絵を描く人がいるんだ。」と感嘆し、ますます絵画が好きになって行きました。と同時に「パウル・クレーが世に認められたのは亡くなってから。生きている間は見向きもされず極貧の中で死んでいった。」という沢野先生の言葉も頭の中にしっかり焼き付き、「絵は好きでも食って行くには別の仕事に就かなきゃならない。」と小学2年生にして悟ってしまったのです。
進級し担任から離れても沢野先生とは仲良くさせて頂いていました。小学4年で名古屋に転校する事になりましたが、その時もお別れの挨拶は欠かしていません。

いきなり小学校へ出向いても先生は既に他校へ転任していました。でも対応して頂いた先生が、ご丁寧に今どこの学校に勤務しているか調べてくれて行き方まで教えてくれました。その足で赴任先の学校へ出かけ首尾よくお会いできました。十数年お会いしていなかったにも関わらず沢野先生は私の事をよく覚えていてくれました。私が忘れている事でも覚えていて教えてくれたり。初めてお会いした頃と変わらぬ柔和な表情で、十数年前と全く変わらない姿でした。痩せ型ロマンスグレー、鼻と口の間にはこれもロマンスグレーのちょび髭。

あれからまた50年。さすがにご存命ではないと思いますが、今の私が在るのは先生の影響がかなり大きくあります。
結局食って行けない絵や彫刻は趣味として。食う為にはエンジニアとして会社勤め。おかげさまで人並みに生活して来れました。
小学生の当時、我家が赤貧の中になかったら、もしかしたら美術の道に進んでいたかもしれませんが、これはこれで良かったのだろうと思います。そう今の私を決定付けたのは小学2年の時に沢野先生から聞いた「パウル・クレーが世に認められたのは亡くなってから。生きている間は見向きもされず極貧の中で死んでいった。」と言う言葉だったのだと思います。

ムムッ、地図遊びって面白い! 自分の生涯の旅でもあり得るんですね。


Post Script
暖かな光は燦々と我等の庭に降り注ぎ
若木はすくすくと伸び逞しく太る
新しい歌声の流れる庭に仲良しの
手をしっかりと握りしめ
優しいまごころは海を越えて匂う
ああ美しい庭よ 我等の庭よ

なんでこんな校歌覚えてるんでしょ? 転校先の小学校の校歌も中学校、高校、みんな忘れてしまったのに。