昔はみ〜んなブラックだった?

数日前の記事ですが、残業100時間を上限とする事に対し自殺した電通の女子社員のお母さんが反対しているのを見ました。
「過労死をさせよ!と認める法案でしょうか」という見出しはインパクトのある言い回しです。
お子様を亡くされている方に対して酷な言い方になってしまいますが、これもまたロジカルな思考から大きく外れているとしか言いようのない意見です。
お母さんも仰っていたように100時間というと20日/月として毎日5時間の残業です。大体18時から23時までってところです。これくらいで自殺に追い込まれるというなら戦後から我々の世代ほぼ全員が自殺していなければなりません。繁忙期であれば土日も出ますから200時間/月を越える人はざらにいました。
過労防止の為には、時間というパラメータで制限をかけるのがまず平易な方法なので、とりあえずはこう決めただけ。
最も重要なのは精神的な労働環境の改善です。これに踏み込むにはどうすべきかが今後進めなければならない問題です。
時間だけで言うと昔は全ての企業がブラックって事になります。しかしそれを強いる側も強いられる側もそんなこと思った事なぞ一度もありません。
古い言い回しですが「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、 ほめてやらねば、人は動かじ。」を強いる側は常に念頭に置き仕事を進めていました。強いられる側も「いつも見てくれている。」という安心感から思い切った行動をとる事が出来、それが戦後の日本の高度成長を支えてきたのだと思います。
上司と部下のそんな関係が今は希薄になっている事が大きな問題ではないでしょうか。上司は部下に丸投げ、上手くいかなかったら叱責するだけ。部下は部下で相談を持ち掛けるでなく行き当たりばったりの行動をとる。
あげく100時間/月以上は働かない。これでは日本経済もお先真っ暗。
労働時間と成果が正比例するのは労働集約型の業務だけです。知識集約型の業務では出来ない者はどんなに時間をかけても成果はゼロです。出来ない者にヒントを与え自ら学習するように仕向けるのが上司の役目です。
今の世の中、労働集約型の業務なぞ殆どが機械に置き換えられています。唯一残されているのがサービス業です。知識集約型の仕事を如何に教育して行くかが今後の日本の生きる道です。そんなクリチカルな時代にどうでも良い事に拘っていて良いのですかねえ。