長いような短いような一日でした。
24日の朝連絡を受け、その日はお通夜でかみさんを伴い各務原へ。翌日が葬式で11時までに来るように言われ再度各務原へ。
2往復と言っても高速を使えば会場まで片道1時間もかかりません。本当に近くなったものです。
11時というのは食事の用意がしてあった事のようです。「こんな折にそんな事までしなくても…。」と思いながらも折角なので有難く頂きます。
少し離れた場所にいたのですが、お義母さんが僕の傍に来たいと言っているとの事で姉が車椅子を押してやってきました。
30年程前の脳梗塞で右半身不随、その後ずっと車椅子生活。言葉もままならず聞き取れない言葉を何度も聞き返しながらの会話です。
その中で一言触れた姉への感謝の言葉が印象的でした。悪意は全く無いのでしょうが、世間知らずのお嬢様育ちのまま年を経た所為か、かなり辛辣な言葉を発していた人の言葉だけに、虚を突かれたというかかなり落ち込んでいるであろう事が解ります。
式の最後にお義父さんの生い立ち経歴などが映像とともに紹介されました。
初めてお会いした頃の印象では技術畑であろう事は解っていましたが具体的に何をやっていたかは知りませんでした。しかしその映像の中の木造飛行機を取り囲んでの写真になんとなく納得させられました。
学校卒業後は戦時下でもあり将校として軍務に就き、戦後はご父君の死に伴い技術畑とは無縁の職に就く事になります。
仕事の為各地を転々としながらも退職後はこの地に居を構えられました。それは学生時代、軍務時代のこの地の青春の思い出、やりたくても出来なかった事など積年の思いがそうさせたのだろうと感じられます。
日本人離れした彫の深い風貌、柔和でありながらも何もかも見透かしているような眼光の鋭さは若い頃の写真からも伺えます。
名古屋の瑞穂区に生まれ育ち、あの辺りはその当時から著名人が居を構えていた所ですから、育ちの良いお坊ちゃまだったであろう事は容易に推測できます。
一緒に写っていた奥様も、失礼ながら今では想像もつかないような良家のお嬢様風の美人です。
きっとお二方には断ち切れないほどの思い出がこの町にあったのだと思います。
今流行りの駿アニメ「風立ちぬ」同様、青春と空への憧れが詰まっている、この地はそんな場所だったのだと思います。
ここにももうひとつの「風立ちぬ」があったんですね。
出棺時、あの気丈なお義母さんが声を上げて泣き出しました。それを見てこちらまでついもらい泣き。「あのお義母さんがねえ。」なんて思うと尚更です。
火葬中お孫さん達(姉夫婦に子供はおらず、義妹の子供たちを我が子のように可愛がっていたようです。)との何気ない会話の中で聞いた話。
「Sお爺ちゃんが『盛田と食事をしてきた。』というのでどこの盛田さんかと訪ねたら、あのSONYの盛田昭夫さんだった。本人は何も言わないけどSお爺ちゃんって凄い人だったんだね。」
そんな著名人と比べると随分静かなお葬式でしたが、それがいかにもお義父さんらしいです。
集骨後再度式場に戻り初七日の法要も済ませます。最後にお坊さんが話してくれた戒名の由来は、お義父さんの先祖への敬いの心に対してのものだったそうです。そして家系を遡りどんな人がいたかまで調べていたそうです。
そうそう、そう言えば我が家の長男T哉のこの名前もお義父さんが付けてくれたのでした。T哉の名付け親でもあったのです。
感謝を込めてご冥福をお祈りします。
涼ちゃんの首がすわったら、お義母さん達にお披露目に行かなくっちゃ。