ボランティア

昨日5月5日はワラジステーキパーティ。メタボ治療(御在所通勤)も早々に切り上げ夕方から炭火熾し。真冬とは違い火熾しも楽です。
残量の少なくなった山用ガスカートリッジを使いバーナーで木炭に直接火をつけます。尤も火を大きくするには団扇でバタバタやるよりありません。これがしんどいです。
火が他の炭に完全に移ってから火床をコンロ内に均一に広げます。錆び錆びの金網を空焼きし脂身で錆を落としてから焼き始めます。
火熾しに要した時間に比べ肉を焼く時間は短いです。ええ、たったの四枚だけですから。表面カリカリ、中はミディアムからレア。
炭火焼きの時だけシェフを任されるtanuoさんはいつも食べ始めるのは最後です。tanuoさん可哀想。
焼き上がった肉を運ぶ度、T哉が「ムチャクチャ軟らかくて旨い。」と言います。あまり高いお肉は自分家では買わないようです。まあ我々もこんな時の為にしか買いませんが。しかしお肉ってお値段通りですね。やはり高い肉は旨い。
それに濡れ縁って便利です。掃出し窓から直接出入り出来ます。(お肉を焼くのは庭です。)
焼き終え、火の始末をしてから食卓に就きます。お肉ってボリューム感があるのですぐ満腹してしまいます。tanuoさんも少食になったものです。
今日はS司がいないので大量に余ってしまいました。冷めても美味しく頂けるので翌日に取っておきます。
S司は今ご学友様達とお出かけです。高野山のお寺に泊まりその後は熊野古道へ行くそうです。歴史と宗教に接する旅です。文化的な生活を営むようになったものです。あのS司がねえ。幼い頃を思い出すと感慨深いものがあります。


一ヶ月ほど前、かみさんから頼まれました。「子供達を山へ連れて行ったげてくれない? 車の運転ができる人が必要なんだって。」
詳しくは聞きませんでしたが小中学生くらいの子供をハイキングにでも連れていくのかなと思い 「いいよ。」
「詳しい事はTさんから聞いて。電話番号教えといたから。」Tさんと聞いても特別何も感じませんでした。しかし懐かしいですね、ご近所だと言うのにもう20年以上のご無沙汰です。
数年前かみさんに言った言葉から何かにつけてこき使われます。曰く「定年退職したらボランティアでもやろうかな。」
「お父さん、ボランティアやりたいって言ってたでしょ。」ときりだされ、男手の居ない友人宅の引越しに駆り出されたり、何かの荷物を運ばされたり、etc. etc.
先日Tさんとお会いして詳細を聞くと、知的障害のある人達の支援の一環としてリクレーションのフォローをして欲しいそうです。女性スタッフは居るのですが男性スタッフが少なく男性のフォローが必要なのだそうです。子供と言っても20歳を過ぎた人が殆どで中には中学生も居るとという程度。
そうかTさんの次男のT君もS司の一学年下。我々にとっては30歳近くても子供のようなものです。
私達がここに引っ越して来て最初の一年間、S司は近所の保育園に通っていました。そこで仲良くなったのがT君です。
S司も満2歳を過ぎるまで言葉が全く出ませんでした。癇癪持ちで甲高い声で鳴き続ける事はあっても片言の言葉さえ喋る事はありません。仕事に忙殺されながらもなんらかの障害があるのではないかとずっと心配していました。おまけに病弱でいつも医者通いでした。食も細くまともに育つのかも心配でした。
2歳を過ぎた頃、始めて私に喋りました。「ナニシテル?」私がその時何をしているのか聞いたのでした。その時の嬉しかった事。それを境にある程度の言葉を発するようになりましたが、やはり他の子供達とはかなり違っていました。身近にいるお兄ちゃんと比べると生物学的な分類上全く別種であるかのような違いです。やはり知的障害があるのではないか?という危惧はいつも頭の中にありました。
T君は極度の自閉症との事で、こういった子供達は同じ仲間を見つけるのに敏なのかな? なんて思ったりしていました。
飼い犬の散歩を兼ねて土曜日のS司の送迎は私が担当していたのですが、その時は必ずT君のお母さんであるTさんともご一緒していました。
二人とも気が合ったのかT君はよく我家にも遊びにきました。「Sちゃん、Sちゃん」と呼びながらお母さん(Tさん)に連れられてやってきたのを覚えています。
考えてみるとTさんと接していたのはあの1年間だけだったのですね。その間にかみさんが誘ったのか泊りがけで一緒にスキーに行った事もありました。
利発で容姿端麗、そして誰にでも優しい性格。いつも周りからチヤホヤされながら育ったであろうと邪推するほど3拍子揃った、天から二物どころか三物を与えられた人なのに、神様はどこかで帳尻を合わせるかのように苦労も背負いこませます。
そして疎遠になっている間にTさんは自身でNPO法人を立ち上げ、地域の同様の子供達を支援する活動に取り組まれていたのでした。かなり大きな規模で活動されています。やはり母親は強いです。親が居なくなっても子供達だけで普通に生活して行けるようにと、障害者達の共同生活の場も立ち上げられています。またその人達が働ける場所を立ち上げたりもされています。
ところで家のS司はというと親の心配を他所にいつのまにかごく普通の子に育って行きました。今でも若干社交性に乏しくGoing my way な所はあるもののなんとか社会生活を営んでいます。未だ学究の身であり社会人とは言い難いですが。保育園時代はどちらに転ぶか全く解らなかったので、障害を持つ子の親御さん達の事をとても他人事とは思えません。


4/28の日曜日、豊田市総合野外センターでのハイキングに始めて参加しました。おしっこをするとき要注意の子がひとり居り、その子のフォローを頼まれましたが特段難しい事も無く No problem.この程度ならチョロイ、チョロイ。なんて思っていました。
次は5/3に岩屋堂。集合場所で「男子トイレに入っている子が出てこないので見てきて欲しい。」と女性スタッフに頼まれました。トイレに入るとウンチの臭いがプ〜ン。外から声をかけると扉を開けます。便座に腰掛けたままで色々問うても何も言わず要を得ません。まさか自分が他人のケツの世話をしなければならないとは思ってもおらず、どうしてよいのかオロオロするばかり。小さな子供なら兎も角、ポコチンに毛が生えたおっさんなものですから。痺れを切らしたのか女性スタッフが入ってきてテキパキ処理します。その方、まだ20歳を若干越えたばかりのうら若きお嬢さんです。自分の無力さに茫然自失、同時にまだ若いスタッフの彼女にほとほと頭が下がる思いでした。
催しが終わった後でスタッフが集まり反省会を行うのですが、改善点などを積極的に述べています。創意工夫を凝らしそれを実行に移して行きます。「今の若い者は!」などと言う年寄り達に彼女達の働き振りを見せたい思いがしました。こんなにクリエーティブにそして積極果敢に仕事に取り組む若い女性達。これってTさんの姿を見てそれを身に付けて行った結果なのでしょうか。全く母は強し、未婚の女性もまた強し、です。
その日以降、私には未だトイレでの衝撃が残ったままです。帰宅後かみさんに「あんな事ようやらん。」なんて言っても「そんな事言ってたらボランティアなんて出来ない。」って言われるに決まっているし。


夕べのパーティ後、皆で雑談している時にTさんのお手伝いをしかけていることに話題が移り、ついうっかり漏らしてしまいました。「まさか他人のケツの世話をするなんて思っていなかった。」
案の定かみさんは、「あんたのケツの世話、私がやるんだよ。あんたも動ける内に人のケツくらい世話しなさいよ。」
やっぱり言われてしまいました。
しかし抵抗があるなあ、スタッフの人達は私も同様の事をするものと思っているみたいだし。私が頼まれたのは子供達を山へ連れて行く事だけだと思っていたのに…。かと言っていきなり棒を折る事は出来ないし。チョボラ? そんなもん世の中には有りませんね。