フェルメールがやってくる。

地下鉄の吊り下げ広告です。どこで行うのかしりませんが、フェルメール展が開催されるそうです。
今回は代表作である【耳飾りの少女】は来ないようです。
フェルメールと言えばラピスラズリの青。当時金と同じ値段だったそうですからとんでもない贅沢だった訳です。
「芸術家と職人は別物」とよく言われますがこんな事を言うのは全くのドシロウトであることを自ら認めているようなものです。
芸術なんて概念が現れたのは近代以降の事でそれ以前の芸術家達は自身を職人と位置づけていました。後世の人達が彼らとその作品を芸術と呼んだだけの話です。
絵描きにしても物彫りにしても彼らの持つ技術により顧客の要望に応えていただけなのです。日々たゆまぬ精進の繰返しが彼らの仕事を芸術の域にまで押し上げていたという事でしょう。それは現在においても言える事で、芸術家を気どっていてもその精進を怠る者はうわべだけの似非芸術家でしかありません。地道な職人性こそが芸術家の素質です。
その職人達、絵具でさえ自分たちで作っていました。こんなことが出来るのは職人としての技術の賜物です。鉱石ラピスラズリも絵具の顔料だったのです。現在のように文房具店に行けば12色環の原色の絵具が手に入る訳ではありません。そういえば油彩の絵具も原色なんて無かったですね。赤というと紫がかった暗い色のクリムゾンレーキか朱色のバーミリオン。それらの色をパレットで調合するか点描画として直接カンバスに塗り重ねるか。大体原色を使うことなんてまず無いのでそれはそれで問題無かったのかな。原色まるのままベタ塗りなんて小学生の絵ですもんね。同じ赤でも見る角度、光の当たり具合、他の色の光線などの影響で微妙に違ってきます。職人さん達の目は色度計などの測定器よりも正確にその違いを読み取り再現していたのです。
フェルメールラピスラズリにこだわったのも職人性の現われでしょう。知的好奇心から「どんなものなのか試してみたい。」という欲求が高じてその虜になってしまったのでしょう。
絵とは違いますがその気持ちはよく解ります。私も昔、特注品を作っていた頃は新しいデバイスが出てくると、そこまでの必要がなくても使う事がありました。どんなものなのか使って見たくて仕方がなかったのですね。安い部品の組み合わせで要求仕様は満足出来るのですが、「組立て調整に大きな工数を費やすより高価な部品を驕ってやればその工数が削減できリスク回避にもなる。」なんて言うのはその為の常套句でした。それでも一度使えばその限界も解りますので次回ハイスペックなものを作る時の予備知識となります。
こうしてみると現在の技術屋も結局は職人性の上に成り立っているようです。
いや人そのものも常に努力し続ける事で成長してゆくのですね。なーんだ、行き着く所は何事も同じって事ですか。日々是精進。