花は解からん

よく山仲間の人達に言う。「植物について私には聞かないで下さい。」
人に教えて貰う事はあっても教える事なぞ滅多に無い。もともと植物には(いや、なにもかもと言うべきか)全く無関心だったが、山歩きの最中、何もする事が無いので教えてもらった事の幾つかが記憶に残るようになった。


今、我家の食卓には芍薬と鉄線の切花が飾られている。いずれも庭に咲いているものである。
牡丹もあったがいつの間にか枯れてしまったようだ。
花だけを見ると芍薬も牡丹も私には見分けがつかない。「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。」なぞと美人を形容する言い回しがあるが、芍薬、牡丹はよく似ており華やかであるが百合は清楚という表現の方が似合っている。そして花の形が他の二種とは全く異なる。何故そんな言い回しが生まれたのかよく解からない。


くどくどと長ったらしい前置きはさておいて先日の御在所通いで山芍薬の自生地を徘徊してきた。4月末の霙混じりの嵐の所為と当日の曇天の所為でまだ蕾は固かった。しかし蕾の数は多く一斉に咲き始めるとかなりの壮観であろう事と思う。
切花の芍薬からこの山芍薬を思い出した次第。
この山芍薬、花の形が園芸種の芍薬とは全く違う。芍薬のように花弁が八重ではなく華やかさは感じられない。どちらかと言うと清楚という言葉の方が似合っている。同じ牡丹の仲間でありながらこうも慎ましいのは山野に自生するが故の定めなのだろうか。
花の形からすると沙羅(夏椿)にそっくりである。花弁の先の小皺など沙羅の花そのものである。但し沙羅は大木、山芍薬は草目。牡丹が木で芍薬が草で同じ牡丹科であることから草と木の違いはあまり関係が無いのかもしれない。但し分類学上は山芍薬は牡丹の仲間、沙羅は夏椿と呼ばれるように椿の仲間。遺伝学上は全くの別物でありながら何故こうも似ているのか。


華やかな花というのが媒介を司る昆虫を呼び寄せる為の本来の姿なのだろう。対して清楚な花と言うのは昆虫よりも華やかさに倦んだ人間の方に人気がある。侘び寂びの世界に趣きを感じる大人の趣向である。
まあ植物側からしてみれば人間の趣味とは無関係に種の保存を図る為の手段でしかなく、カンアオイのようにたとえ姿形はおぞましくともフェロモン臭により昆虫を引き寄せるという選択肢もあるのである。
植物の本来の意図とは別に身勝手な思い込みで花を観賞している人間、実はこの人間達の行為もしたたかな植物達の種の保存のひとつの手段に組み込まれているようにも思える。これもバイオロジカルダイバシティーのひとつの選択肢なのだろう。