連休七日目 子供の日 そして子供達の為に

昨日の御在所通勤で久しぶりに或る方とお会いしました。
急遽御一緒する事となり最後尾について行きました。最初の10m滝の上でその方が白い物を流しているのを目にしました。カルシウムがどうのこうのと言っていたように思いますが、別に気にも留めずにいました。
そしてまた別の所で同様の行動を目にした時、Oさんから彼女のご父君がつい先日亡くなられた事を教えられました。実は散骨の為来られていたのでした。
ご父君は山好きで彼女も幼いうちからよく連れられて登っていたそうです。この谷を歩きながら懐かしそうに語るご父君との思い出話を伺っていました。子供を出汁に出かけるところなど、お堅い教職者とは違った一面を思わせ、微笑ましくまた人間臭さも感じられました。
彼女自身も教職者であり、お爺様はかなり位の高い軍人さんだったそうです。
「血筋だなあ。」これがその時まず感じた事です。


昔、学問の基礎は四書でした。特に時代劇などで侍の子息が勉強している時に出てくる「子、曰わく」で始まる論語が有名ですね。
争いが無くなった江戸時代、武士の役割は有事の為の武道も大事ですが、治世の為の教養や学問に重心が移って行きました。災厄から如何に領民を護るか、天下国家の為自分は何を為すべきか。常にこの事を念頭に自分の役割を果たす。これが人の上に立つ士族の務めであったのです。
明治以降身分制度が無くなってもこの教えは職業軍人、特に士官学校での教育に受け継がれていました。いや、平民の通う尋常小学校でも修身というカリキュラムの中に受け継がれていました。
平民には人としての生き方の基本を、エリート達には天下国家をより良い方へ導く為に自分達が身を挺して行わなければならない事を教えていたのです。
時代が流れて太平洋戦争の後、日本に民主主義の世の中がもたらされました。民主主義そのものは主権者としての自覚のある人々には素晴らしいシステムです。しかし自分で考え自分で決める事の苦手な人々にはなんら有益なものではありません。ただ面倒なだけです。
その民主主義の世の中に切り替ると同時に、人間として生きていく上で最も重要な教えが学校教育から消え去ってしまいました。天皇崇拝に繋がるという懸念からこうなってしまったのでしょう。
そして今、学校教育の一環としての、人としての生き方を教えるカリキュラムは有りません。今学校で教えられているものは、職人がその職を身に着ける為のテクニックの基礎でしかありません。算数、理科なんてそのものズバリでしょう。国語、社会にしてもその域から外れるものではありません。挙句、金儲けが人生の目的、金儲けの上手い人が立派な人、と本気で思っている人ばかりになってしまいました。
今現在まだ多くの企業を率いている高齢の方々は戦前の教育を受けてきた人達で、自分の役割をしっかり認識している人達です。その方々もいずれ時間と伴に亡くなって行くことは当然の事です。後に続く人達は戦後の人間教育が欠落した人達ばかりです。どうなっていくのでしょうね。最近企業の不祥事がよく問われています。コンプライアンスの欠如が騒がれています。既にその危惧は現実のものとなっているのです。


一人っ子の彼女は2年数ヶ月に亘りご父君の介護を務められたそうです。前回お会いした時には旦那さんも身体に障害を負いその介護に当たられているとお聞きしています。
職場である学校でも問題に対し積極的に対応されていると聞き及んでおります。
学校のカリキュラムからは消えてしまっても、こうやってその教育を受けてきた親御さん達から連綿とその教えが受け継がれているのだろうと思った次第です。
そして彼女が教育者として子供達に学校のカリキュラムなぞよりも、もっともっと人として大切な事を伝え続けているであろう事に一種の安堵感を覚えているのです。
そして第二、第三のこの先生が増えていくであろう事にも希望を感じています。