2009年 初春

明けましておめでとうございます。


穏やかな良いお正月ですね。
朝遅く起き出しお雑煮。お屠蘇代わりにS司が貰ったという吟醸酒を頂く。さらっとした飲み口で旨い。
新聞を見ているとS司が早々と起き出してきた。いつもは昼近くまで寝ているのに。そして元旦だというのに今日も学校へ行くという。公の機関は休みでも学校は入れるそうだ。そして官費を使ってエアコンを入れるのである。
年中無休で冷暖房完備の図書館が開いているようなものだ。
「ええなあ。お父も行こうかな。」
「守衛さんがいるよ。」
「許可証かなんか要るの?」
「僕は顔を覚えられているからフリーだけど。」
「そんなら友達のふりして一緒に行けば大丈夫かな。」
「さあ…。」
他に何も楽しみが無いというのもひとつの特技である。何物にも誘惑されずひとつの事にうちこめる。私なぞ若い頃は煩悩の塊のようなもので、あれもやりたいこれもやりたいで勉強などする暇がなかった。おかげで人生の落伍者となってしまったが。
何事もその成果を決めるのは、どれだけの時間をそれに費やしたかによる。長い時間をかければかけるほどその成果は現れるものである。適性云々なぞと言う人もいるが、その適性が現れる前に当人がどれほどのエネルギーをそれに傾けていたかは誰にも解からない。適性などと言う物は、その事にずっと執着し続けられるか?と言う事に置き換えられるのである。
T哉が高校生の頃、同級生の隠された特技に驚かされた事があったそうだ。
普段は教室内でも目立たないその子が、ギターを手にするとプロと見紛う程の実力だったそうな。
その時T哉にひとこと言っておいた。
「どんな人間も四六時中無駄に時間を過ごしている訳じゃないんだよ。お前がスキーや体操に打込んでいた時間が無駄だったとは言わないが、他にももっとできただろう事とその時間を失ってきたとも言えるんだよ。」
一見パッとしない子(人)でも外からは計り知れないものを持っているものである。その習熟した成果に対する価値観は他人が決める事ではなく、本人が決めるものである。そしてその成果は本人がどれだけの時間をそれにかけたかで多寡が決まる。
誘惑に打ち勝ち苦しみながらそれにかけた時間も、誘惑が無くて楽々とそれにかけられた時間も中身の違いなんて無いのである。要はそのかけた時間の長さに比例して成果は決まるものである。
誘惑に苦しまずに打込める、やはりこれもひとつの天賦の才能なのだろう。(temptationと天賦:ダジャレです。寒〜。)


今夜は手巻き寿司だから早く帰って来いと言われて、「6時に帰ってきて、風呂へ入ってまた9時に学校へ行こうかな?」だって。おいおいええ加減にせえよ。
S司をお送り出し庭に目を遣ると、もう蝋梅が咲いている。いかにもお正月。



福寿草は? まだ蕾も出ていない。気配すらなく土の中でぬくぬくと眠っているようだ。
山茶花はもう大分前から満開である。花期が長く花の少ない冬に楽しませてくれるこの花は生垣としても人気が高い。但し次から次と咲くと同時に地面に落ちた花は少々見苦しい。
蜜柑は取っても取っても減る気配も無く鈴生り状態。収穫してしまうより木に生らせたままの方が日持ちがするので放りっぱなし。食べたい時に捥いでくれば良い。といっても誰も見向きもしない。



この花の花期が長い。およそ春まで咲き続ける。丈の短い草木だが寒さにも強くどんな所でも繁殖する。