地下鉄にて

子連れのお母さんが乗り込んできた。ベビーカーから赤ん坊を抱き上げ、身体で空になったベビーカーを座席横に押し付け支柱に掴まる。まだ幼いお兄ちゃんも同じ支柱に掴まり、空いた手でベビーカーを支えている。
傍なら直ぐにでも席を譲るのだがちょっと遠い。気にしながら見ていると、お母さんに気付いた初老の小父さんが直ぐ席を譲った。遠慮がちながらもその不安定さにお母さんは席に着いた。それを見届けて半ば浮きかけだった私のケツも落ち着きを取り戻した。
昔かみさんから聞いた事がある。「子連れだとバスでも地下鉄でも大抵席を譲ってくれる。」
かみさんも2人の子を連れて大変な道中を行っていたのである。子連れのお母さんに席を譲るのは、昔かみさんが世話になったそのお礼でもある。今回はそのチャンスを逸してしまったが。


お兄ちゃんは3-4歳くらいだろうか。お母さんの横で支柱に掴まったまま、一人でしっかりとベビーカーを抑えている。やんちゃ盛りの年頃にしてはおとなしく、いかにも躾けが行き届いている。かと言って子供らしい明るさ、屈託の無さはちゃんと備えている。お母さんもまだ若く20代半ばくらいだろうか。飾り気はないがお母さんらしい清潔な身嗜みである。


聞き耳を立てていた訳ではないが、どうやら入院中のお父さんをお見舞いに行くところらしい。それが平針駅で降りた。
平針で大きな病院というと記念病院しかない。そしてこの病院は末期癌患者の終末期医療で有名である。総合病院であり別に癌患者専門って訳でもないが、どうも私は勝手に他人を悲劇のヒロインに仕立ててしまう癖がある。
「まだ若いのに大変だなあ。それも幼い2人の子供を抱えて。これからどうやって生きて行くのだろう。」と過去の我家に当てはめて、つい目頭がジーンとしてしまうのである。勝手に旦那を末期癌患者にしてしまうtanuoさんは性悪なのだろうか。
しかしそう考えるとなにもかもつじつまが合う。お母さんは旦那に心配をかけまいと精一杯小奇麗にして、お兄ちゃんもわがままなど言いもしない。大変な想いをしているお母さんを身近で見ている子供は、手なぞ掛けなくても自分自身で躾けられて行く。同時に人への思いやりや優しさも身に付けてゆく。


少しばかり重苦しさも残るがお兄ちゃんとお母さんの姿に爽やかな余韻を感じていたその直ぐ後の事である。
K駅が近付き、降りる為ドアの方へ行く。降りる訳でもないのに女子高生がドアの前に陣取っている。ドアが開いてもそこを動こうともしない。ゲームやマンガに夢中になっている訳でもない。降りようとしている乗客が見えているのにである。
盲目なのだろうか? いや白い杖は持っていない。目を開けたまま寝ているのだろうか? いや先程は携帯TELを見ていた。じゃあ余程のバカか?
いや、この子を責めるまい。こんなアホウに育てた親が悪いのである。躾けも出来ていないアホウな親にその子供を躾ける事は無理なのかもしれない。
ちょっと待て。もう高校生だろ。いくら親がアホウでも、もう自分で気付いても良い年頃だろ。
無理か。この頭の悪さも親譲りか。


先程のお兄ちゃんの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいわ。家庭の問題にしても世の中の問題にしても危機感が無いと人は成長しないものなのだ。平和ボケの日本で安穏と暮らしている限り、どんどん精神は退化してゆくのだろう。長幼の序、慎み、思いやり、優しさなどをどこかに置き忘れ、ただ学校の成績だけが人の評価の尺度となって行く。その先にあるものは、人生の目標は楽して金を儲ける事。それを実現した勝ち組と呼ばれる人達を【立派な人】と本気で信じているようだ。
人として最も大切な事も解らないものに今の高校のカリキュラムが本当に解るのだろうか。微積分の意味、三角関数の意味、ベクトルの意味など、おそらく何も解っていまい。論語読みの論知らず。そんな者に高額な教育費をかけても全くの無駄だと思うが…。