あ〜、食った食った。

今帰ってきたところ。
カルちゃんの車検も無事、それも思っていたよりずっとお廉くすんだ。それでかみさんが「誕生祝いを前倒しして旨いものを食べに行きたい。」と言う。
「じゃあ久しぶりに蟹でも食うか。」となりS司にもTEL。
想像通りS司の返事は「パス!」 毎度の事ながらかみさんと二人だけでディナータイムデート。料理は華やかでも子供がいないとちょっぴり味気ない。
花金の夜にしては客も少なく静かだ。まだこの時期は蟹の季節ではないのでこんなものか。仲居さんも手持ち無沙汰で暇そうだ。
これだけ価格設定を高くしておけば余剰人件費も充分ペイできるだろう。また材料管理、衛生面でも必要以上に手をかけられるだろう。こういった店舗ではそんなことは当然の事で、それらよりも【寛ぎ】とか【贅】とか顧客のプラスαの満足に大きなコストがかけられている。ドラッカーの言葉に「企業に利益と言うものは無い。その利益も将来へのコストである。云々。」というのがあった。大きな利益を上げその利益によりRichな生活をしていても、その生活が次なる利益への原動力となるコストなのだとか。
そういう考えもまた真実である。仲居さんが暇なのも、厨房が暇なのも、はたまた帳場が暇なのも次なる利益を生む為のコストなのである。
それに対して、一箱数百円の生菓子の製造販売という商売は製品価格に対し製造原価の比率が異常なほど高い。まして最近の原油高に端を発した原材料の高騰は死活問題である。そんな状況で誰でもが考えることは無駄の排除である。売れ残りのリサイクルは誰でも思いつく事であり、どこでも当然の如く行っている事である。やっているならやっていると言っておけばこれほど酷い仕打ちは受けずに済んだかもしれない。現にそれで実害を受けた人は誰ひとり居ないではないか。食品衛生法かなにか知らないが、なんだか悪意のある狙い撃ちとしか思えない。それに同調するように各メディアの非難である。各誌異口同音、個性なぞ全く見当たらない。これら画一的な考えが正常で私のような事を考える者が異常なのだろうか。
こういった風潮が一般化すると、単に法律さえ守っていれば人が死のうがお構いなし、法には触れていないのでお咎めなし。といった表層的なコンプライアンスが一般化してしまうのではないか。
今必要とされているのは、法だけでなく人の道に反していないかどうかを問うコンプライアンスである。
このままいくと各企業が自己防衛のため本末転倒の道へ追い込まれるのではないかと心配である。
くどいかもしれないが、赤福白い恋人も、雪印不二家とは違い実害なぞ無いのである。
たかだか数百円のものに顧客は法外な期待なぞしていない。数百円のものは数百円の価値さえあれば良いのである。蟹道楽の一食分のお値段なら別ですが。


食事中S司からTEL。
「8時20分にN駅に迎えに来て。」
「今まだ食事中だから、帰りに学校に寄ったげるわ。30分後に正面のバス停に居る。」とかみさん。
食後、会計で太巻き一本お持ち帰りで追加。しめて****円。
まだ夜の7時過ぎだというのに道路はガラガラである。あっという間に学校に到着。暫く待たされた後S司をピックアップ。
お腹が空いたと早速太巻きを開ける。包みを開けると同時に酢飯と海苔の芳香が車内に漂う。あれだけ食っておいてもこの香りには食欲をそそられる。
あっと言う間にS司は太巻きを平らげてしまった。
「あんなに食べるのが遅かった子がねえ…。」とかみさん。
あのころのテンちゃんはもうどこにもいない。食事にも付き合ってくれないし。
しかし食うの速くなったなあ。23歳、当然と言えば当然か。
帰途「甘い物が食べたい。」とかみさん。ミニストップでベルギーチョコソフトを御用達。よう食うやっちゃなあ。
そういえば私も甘いものが食べたくなった。人の事は言えんのう。
ああ、いつになったら赤福が食べられるのだろう。食えないとなると余計に食いたくなるのである。
クッソ〜、弱いものいじめばかりする連中め〜。ああ赤福が可哀想。
ひょっとして御福餅の陰謀か? こんな疑いが出てくると尚更御福を食おうとは思わん。