COP10

最近、「地球温暖化地球温暖化」とメディアがやけに騒がしい。深刻な問題には違いないが、なぜ今頃急に騒ぎ出したのだろう。単に流行を追っているだけのようでいかにも軽々しく見える。
この問題が特に衆目を集め出したのは、1992年のリオデジャネイロで開催された地球サミットからである。既に15年が経過している。以後ベルリン(COP1)、ジュネーブ(COP2)を経て、京都議定書の採択で名高い京都(COP3)、直近では2006年のナイロビでのCOP12と毎年開催されている。
COPとは、Conference of the Parties を略したもので、ここで言う気候変動に関する会議の場合は、その後に to the United Nations Framework Convention on Climate Change と続き、日本語で言うなら、【国連気象変動枠組条約締約国会議】と長ったらしい名称になる。(UNFCCCと略すのが一般的)これを単にCOPと呼び後に続く数字で何回目の会議かを表している。
説明が長くなってしまった(皆さんご存知ですよね。)が、物事にあまり過敏過ぎるのは問題である。かといってあまり鈍感なのも問題である。UNFCCC同様、COPで表わされている会議に【生物多様性条約】がある。こちらも詳細に表すと、Conference of the Parties to the Convention on Biological Diversity となりCBD 或いはUNEP/CBD(United Nations Environment Programme)と略して呼んでいる。いずれも環境問題に関するもので、相互に影響しあい、切ることのできない関係にある。
こちらはワシントン条約ラムサール条約に端を発し、COP1からCOP8まで開催され、次期COP9(ボンで開催)でCOP10の開催地が決められる。因みに名古屋市が誘致を働きかけているのは、このCOP10である。
名古屋市のHPにあるCOP10誘致の宣伝を見るとこれも軽々しく見える。まるでお祭り気分である。「希少種の絶滅を防ぎましょう。」「水鳥などの生息域を守り景観を保全しましょう。」生物の多様性という事への取組み姿勢が、単なる倫理観だけからしか来ていないように思える。「生きている物が絶滅するのは可哀想だ。」なぞと他人事のように聞こえる。まるで自分達人間は安全な所にいて、危険な所にいる生物達を見下しているような傲慢さを感じる。
事はそんなあまいものでは無い。我々人類は食物連鎖の頂点に君臨しているのではなく、多くの生物群に養われているだけなのである。大自然とそこにいる無数の生物群から与えられている物をごく当然の事と勘違いしている訳だが、今それが急激に損なわれつつある。気象変動についてはある程度の方策指針が打ち出され、人々の意識も高まりつつある。しかし生物多様性の重要さについては気付いている人も少なく、その保全についてはまだ端緒にもついていないのである。一部の学者の研究により、「これはとてつもなく根の深い、気の遠くなるような問題だ。」って事が解りかけたばかりなのである。
東洋思想では【自然と人との共生】が強調される。しかしその実、我々日本人の心から自然との共生という概念が失われてしまったような気がする。


いたずらに人心を煽動する気はありませんが、現実を直視しようと思われる方は以下の本を読んで頂きたい。如何に人類がいや地球そのものが、今薄氷の上に立たされているかが解ると思います。温暖化も問題には違いないのですがそれよりもっと直近の切実な問題である事がお解かり頂けるかと思います。
他にも色々な書籍があると思いますが、手近にあったので紹介しています。既に古典の域に達しかけているものです。


生物多様性の意味
The work of Nature
自然は生命をどう支えているのか
How the Diversity of Life Sustains Us


イボンヌ・バスキン著/藤倉良 訳
ダイヤモンド社刊 2001年4月12日 初版







COP10、名古屋で開催が決まっても単なるお祭りでは終わらせたくありませんねえ。
この前の【愛地球博】って一体何だったんでしょうね。あの二の舞にはしたくありませんね。
生物の多様性が失われる事で今現在我々の足元が崩れかけています。もっと真剣に切実に会議に挑んで貰いたいものです。