割れ鍋に割れ蓋?

およそ我々ほど常識の無い夫婦はいないだろう。二人揃って躾けられていないのである。当然人との接し方もよく解らず、未だに子供同様のぎこちなさである。
私はというと、お婆ちゃん子で三文廉の上、幼い頃から夜逃げ(引越し)の連続で近所に親しい人はいなかった。その為手本となる大人の振る舞いを身に付ける術もなかった。例え子供でも後ろ指を指されている事くらい解る。周りの大人たちの冷たい視線にいつも恐れを感じており、他人への警戒心の強さはこの頃に染み付いたものと思われる。
人の好意に素直に甘える事も出来ず、社交辞令にせよ気の利いた言葉で会話を円滑にする事も出来ない。悪意が無いことを表すためにお愛想笑いを浮かべるだけで精一杯だった。
かみさんはかみさんで、幼い頃から母親が病弱だった事もあり、親戚に預けられたり誰も居ない家の中でひとりでいる事が多く、私以上に孤独だったと思う。当然私同様周りの大人たちの常識的な振る舞いは身に付けていない。
文字通りの【借りてきた猫】で、そのくせ一度うちとけると異常なほどの甘えん坊である。
世の中の一般常識を知らないこの二人、遊びを通じて知り合った事もあり、一緒になってからも遊びまくってばかりで家にいる事なぞ滅多になかった。午後4時頃になるとそのまま家に帰るのが嫌で「どっか行く。」と言い出すのがかみさんの常だった。それで私はかにさんを【4時から女】と呼んでいた。思いつくままあっちへうろうろこっちへふらふら。文字通り家へは寝に帰るだけだった。
子供が生まれてからもこの遊び癖は抜けず、子供も一緒に連れまわしていた。
T哉が幼稚園へ通うようになっても土日に家にいることは滅多になく、スキーシーズンともなれば金曜夜からお出かけである。(当時は山の会の小屋に泊り込みで滑っていた。)
ある日幼稚園児のT哉が宣言した。「土曜日はもうスキーに行かない。」幼稚園での製作物の遅れを気にしての事だったらしい。
それじゃあスキーは止めるか?というとそうではない。金曜夜からお爺ちゃん(かみさんの父親)に来てもらい、留守番を頼みT哉だけをおいて出かけるのである。我家では何をさておいても遊びが最優先だったのである。結局T哉の方が折れて暫く後にはまた一家4人で出かける事になった。幼稚園児ながら「しかたのない親だなあ。」と呆れていた事だろう。
子供達が小学校へ上がってからはWeekdayに連泊で出かける事も多くなった。前と同様お爺ちゃんに留守番を頼み子供2人はおいていった。子供達には「お父さんとお母さんはお仕事でお出かけ。」と言い含めておいたが、何の仕事かはバレバレである。2人揃って道具一式担いで行くのだから。
実際その頃はかみさんは冬季バイトで単独でWeekdayに出かける事が多く、半分仕事、半分遊びと思ってくれていたのかもしれない。
およそ社会の常識とは相容れない家風が我家の常識だったのである。
社会の目から見れば欠陥だらけの我々夫婦、世間体を取り繕うという気も全く無く、【割れ鍋に綴じ蓋】ならぬ【割れ鍋に割れ蓋】だったのである。