御在所の七不思議 番外編

国見尾根ダイレクトルート


これは私が勝手に付けた名前で、今ある登山道の本当の名前は知らない。
あれはいつ頃だったろうか。当時も今同様、毎週末御在所通いしていた。と言っても岩登りのお稽古が主体で毎週同じ所を飽きもせず日課としてこなしていた。「よく飽きもせずに?」と思われるかもしれないが、最早飽きるとか飽きないと言う事とは別世界の事であった。毎週の御在所通いは極当然の事であり、それが日々の鍛錬となり本番に備える為のものであった。
とは言うものの、毎度毎度同じ所ではやはりマンネリである。藤内には前尾根、中尾根、一壁しかないのである。結局空いている所から順にメニューをこなすだけで、やっていることは毎週同じ事の繰り返し。そんな訳で、よく山頂まで抜け【喫茶ひめつつじ】でお稽古をサボる、なんて事もやっていた。言わばこうやってメリハリを付けていたのである。雨に降られた時なぞはよく【歩き】に切替えたりもした。いや雨じゃなくても相棒と二人きりの時は結構歩き回っていた。


あの時もそうだった。先輩から聞いた事のある【国見尾根をダイレクトに辿る杣道】を歩いてみよう。となったのである。かつて鈴鹿には縦横無尽にこういった杣道があり、当時はまだこれらの名残が色濃く残っていた。踏み跡らしきもの或いは獣道を拾い登っていくと、ところどころに窯跡がありその近くには顕著な踏み跡が残されていた。大体道というものは沢筋か尾根上に付けられる事が殆どで、踏み跡を失っても見通しの利く小尾根に這い上がれば大抵は新たな踏み跡に出くわすものである。少なくとも鈴鹿のように山仕事の基盤となっていたところでは。
今はやりのバリエーションルートってやつのさきがけとも言えるが当時はそんなことは考えてみた事もない。ただバカな事をやるのがマンネリ化のひとつの解消法になっていただけの事である。そして失敗談を面白おかしく話す事で話の種としていただけなのである。


時として踏み跡を失いながら急斜面を登って行くと遥か上の方に城壁を張り巡らしたような岩が見える。取り付きようの無い岩でも大抵どこかに弱点を持っておりそこを攻めれば意外なほど簡単に乗り越える事ができる。しかし時として取り付きようの無い城塞に阻まれる事もある。これは一種の賭けで近くまで行ってみないと様子は解らない。
お互い顔を見合わせ、「厄介だな。」と目で言葉を交わす。
あんなに大きく見えた城壁も近付くと意外に小さい。そしてその横はスキだらけでどこからでも乗り越えられる。
それより驚いたのは、その岩に【界】の文字が彫られていた事だった。近くには戦国時代に栄えた山岳寺がありそこの僧侶達が彫ったものか、或いは仏教とは関係なく山伏(修験者)達が彫ったものか。
杣人達の生活の糧を得るための山と、修験者達の信仰の対象としての山が交錯していたであろうこの山域に、何か尋常ならざるものを感じたのであった。そして振り返ればいつしか樹林帯がきれ、大きく開かれた視界には菰野の街並みから伊勢平野、伊勢湾と大きな広がりが映っていた。
ここを越えれば傾斜も落ち顕著な尾根筋となり、後はただ高い所を目指せば良いだけであった。
尾根上に出ると巨岩のピークを辿りながらのアップダウンの連続である。こいつは意外に面白い。二人嬉々として岩を越えながら行く。お互い思わぬ収穫に大満足であった。適当な支点があればアップで降りたいところもあったが巻けるところは巻く。結局ザイルの厄介になることもなく不動谷からの道と合流。その後どうしたかは覚えていないが、このダイレクトルートだけは今尚鮮明に記憶に残っている。あの【界】の岩とともに。


そしてずっと後、子供達をつれて御在所へ来た時、降りにこのルートを取ろうとしたことがあった。まだ二人とも小学低学年。今思うとちょくちょくこうやって子供達を連れ出していた事がわかる。
別に危険な所も無かったと記憶しており、安易に選んでしまった訳だが、記憶は10年程前のものである。当然のようにミスコース。登りで迷う事はなくても降りは迷い易いという事を綺麗に忘れていた。結局断崖絶壁の上に出てしまい、仕方なく降りれそうな所を探しながらの下降となった。降り立った所は不動谷の滝の少し下。谷を隔て不動堂の反対側であった。あの急なルンゼをザイルなしで小学低学年の子供二人を連れて降りてきた訳である。
かみさんにばれたら何を言われるかわからん。それで子供達にはきつく口止めをしておいた。まあ今となっては時効であるが。
大体子供というものは親の表情を読み取る天才である。親がパニクれば子供にも伝染する。親が平気な顔をしていればどんな危険な所でも冷静なものである。これは大人にもいえ新人達もこちらがパニクりさえしなければあたりまえの事として平気でいるものである。
こんな経験が功を奏したのか子供達も平気で降りてこれた。子供達の、スキーでの傾斜に対する恐怖心のマヒも良い方に影響していたのかもしれない。


そして御在所通勤再開後、Netでこのルートが新たに整備され一般登山道としてデビューした事を知った。初めて辿ってから20年以上後の事である。
この整備さえなければ、このダイレクトルートは未だに幻のルートとして、御在所の七不思議の候補なっていた筈なのである。
白日の下に曝されてしまってはもうその資格はない。
これも番外編のひとつということになってしまった。