戦国デジタル考

tanuo2007-01-17

最近Netを開くと必ずどこかに【風林火山】が出てくる。うんざりである。
と言いながら先回も他チャンネルとタイムシェアリングしながら見てしまった。リモコンのおかげで寝ながらにして全てのチャンネルの番組に目を通す事ができる。便利な世の中である。(真剣に観たいものが無いだけかも)
信玄フリークの私としては信玄公の偉大さを少しでも多くの人に知って貰いたいものだから、こんなドラマでも多少気になりつい見てしまう。どの程度の事がもられているのだろうか?っと。
しかしまだイントロの部分のようで勘助が晴信(後の信玄)にまみえるまでは進んでいない。ああじれったい。
で、ドラマに先行して信玄の偉大さについて少々述べたい。


信玄の名の付く物って色々ありますが、信長の何々、秀吉の何々、家康の何々って全く耳にしません。
特に有名なのが、信玄堤。富士川上流の釜無川笛吹川の毎年の氾濫を防ぐために考案されたものです。中国でも古くから言われてきた「河を治める者は天下を治める。」と言う言葉を地で行っています。信玄堤の工法は江戸時代になっても引き継がれ全国にその跡が見られるそうです。
そして温泉流行りの昨今、信玄の隠し湯も脚光を浴びています。これは戦で傷ついた将兵の湯治の為と保養施設を兼ねたものだったようです。長野、山梨を中心に本当に沢山あります。
信玄の狼煙台、特に永きに亘り敵対していた上杉氏の動向を探る為に設けられた通信施設です。各狼煙台を経由して越後の動向が半日で甲斐の躑躅ヶ崎館まで届いたそうです。
信玄の棒道、八ヶ岳南面山麓に今も顕著な直線道路が残っています。ご存知の通り軍用道路です。要所要所には食料武器などもデポジットしてあり、当時では考えられない程の迅速なロジスティクスが実現していました。なんだかナチの遺産であるアウトバーンを連想してしまいます。
信玄の名は付いていませんが、甲州金というものもあります。貨幣の統一は経済活動には必須です。それをいちはやく実現したのが信玄が流通させた甲州金です。
信玄は武力だけでなく調略も多用しています。いたずらに兵を疲弊させるよりお金で済むならその方が廉くつくと考えていたようです。この調略(買収)の為にも甲州金が使われました。
この金を採掘する為に多くの山師が雇われていました。この山師、特殊な技術集団で前述の治水工事にも携わり、また敵の城を落とす為のトンネル掘りも担当していました。近代的な灰吹法も既に行われていたようで、これにより他国より金の抽出の生産性が随分高かったそうです。


信玄の言葉はなにかにつけて引き合いに出されます。耳タコかもしれませんが私も少し挙げておきます。


 ①人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり。


 ②我が人を使うは、人を使わず、その業を使うなり。


 ③およそ、軍勝とは、五分を以って上となし、
  七分を以って中となし、十分を以って下となす。
  五分では励が、七部では怠が、十分では驕が生じる。


①は生涯城に住まわず躑躅ヶ崎館を本拠とした信玄公らしい言葉です。今の企業においても同じ事がいえます。
昔も今もヒューマンリソースが最も重要だと教えてくれています。また、たとえ相容れない相手であっても憎むだけでは駄目だとも教えてくれています。
②は如何にも信玄公らしい人との接し方だと思います。その業を使うのであれば身分、地位など関係なく登用できます。それにより育てられた多くの人が名を残しています。
武力偏重の当時にあって山師集団、乱波(諜報員:後の忍者)などを自在に操り、その目的を乱世の平定と庶民の安定と平和においていた所は政治家の枠に収まらず、哲学者としての思想が垣間見えます。
③については一度手痛い失敗をしています。うろ覚えですが志賀山だったかな?十分のボロ勝ちをした後、雪中戦でボロ負けしています。この時の教訓からの言葉だと思います。そしてこの後、前述した調略を多用するようになったのです。敵であろうと味方であろうと人の命の重みを理解していればこそ行き着いたのだと思います。
こういう方法を用いるとこちらに寝返った者はまた敵にまわる事も考えられます。寝返られないよう誠意を尽くして接していても動向は常に観察しておく必要があります。白黒はっきりしないグレイゾーンの人達と常に接していた点から信玄公はアナログ人間だったのだろうと思っています。
逆に目障りなものは全部殺してしまう、言わばデジタルな方法、これが信長の考え方だったのかな?と思っています。
鎌倉以来、武士は専業兵士ではありませんでした。アナログ人間の信玄公も秋になれば兵士達の稲の刈入れの為、兵を引いていました。「鞭声粛々〜、夜河を〜渡る〜。」の川中島の合戦も早く稲刈りに帰らなければならない時期だったのです。
兵士に鋤鍬を捨てさせ、年がら年中いつでも戦えるよう専業兵士を作ったのは信長です。当時としては突飛すぎる事だったでしょう。兵士か農民かはっきり分けてしまうところは、やはり信長はデジタル人間です。
信長は鉄砲の優位性に早くから着目していましたが、信玄公とて遅れをとっていた訳ではありません。信玄公も鉄砲を甲州金でしっかり買い込んでいます。
長篠の合戦では武田勢が負けましたが、信玄公が負けた訳ではありません。この前に信玄公は既に病死しています。あれは勝頼が負けたというべきでしょう。信玄公なら絶対に負けていません。鉄砲に有利な条件、不利な条件全て熟知しています。そして信玄公の重鎮達と折合いが悪かった青二才の勝頼が功を焦った結果のボロ負けっていうのが実態でしょう。半分諏訪一族の血を受け継いでいるのでアンポンタンだったのかもしれません。
鉄砲と刀、一対一では鉄砲って不利なんですね。撃ち損じれば弾を込める前に斬られちゃいます。雨が降れば使えません。それを有利にしたのは迎え撃つ側に立ったこと。それも視界の利く昼間だった事。信玄が作った騎馬軍団の成功体験の虜になってしまい状況が解からなかった勝頼って本当にお馬鹿さんですね。せめて雨が降るまで待ってれば良いものを…。
剣術に励んだ武士をマイスターとすると、鉄砲で狙ったものを撃つだけの兵士って単純作業を覚えただけのパートタイマーに例えられます。
少し前に述べたマイスター制とテーラーイズムの戦いが第2次大戦よりずっと前に繰り広げられていた事になります。
そして同じことが明治維新前にも繰り返されていたようです。鉄砲を持った農民仕立ての官軍と専業兵士が常識となっていた江戸時代最後の武士達の戦いです。
こうしてみると戦争では熟練したマイスターより単純作業しか出来ないパートタイマーのおばさんの方が強いようです。
どんな問題にも対応できる熟練したマイスター=アナログ人間
単純作業しか出来ないパートタイマーのおばさん=デジタル人間
という感じがします。
やはりアナログ人間よりデジタル人間の方が喧嘩には強いのかな?
アナログ人間のこの私、ますます居場所が無くなっていくような…。