名前があった村人A

最近いじめによる自殺が続いている。
電車内の咳や欠伸のように伝染するようだ。こんな事を言うと「不謹慎だ。」と非難されそうだが、実際渦中にいる人にとっては「自分も楽になりたい。」と連鎖してしまうのかもしれない。
それとも隠し続けていたものを、流行りだからとマスコミが掘起こしているのだろうか。破廉恥なマスコミである。話の種になるならどんな不謹慎な事でもしでかす業界である。そうでないと言う証拠なぞどこにも無い。
一昨日の新聞によると、瑞浪の中二自殺で遺書に記されていた加害者4名が不登校に陥っているそうだ。
福岡の男性教諭と言い、この4名と言い嘆かわしい事だ。自分のしでかした事の重みを、今になって噛締めているのだろうが、周りの全員いや被害者も含めて全ての者が加害者になりかねない危うさに心が痛む。
47歳にもなって大人になりきれない先生がいるのだから、中二の子供が幼稚園児以下の精神しか持っていなくてもなんら不思議ではない。
精神の未発達は世の中の平和さに比例すると云われるが全くその通りで、人口抑制の為に何らかの力が働いているのではないか?と思ってしまう。
閉ざされた集団の中で起こっている事が外の世界に知らされない、その秘匿性が鬱屈した快感を助長しているような気がする。群集を隠れ蓑とした名前の無い村人Aや、外の世界には名前が漏れない村人Bが無責任な言動を繰り返しているのだろう。となると日本人の根底にある狡さ卑怯さの現われではないか。


私自身もブラックユーモアは嫌いではない。しかし度が過ぎると不快感を感じる人や心に傷を付けられる人が出てくる。洒落や皮肉が全く無い世界も無味乾燥で味気ない。では何処までが許される範囲内か?
例えひとりでも不快感を感じる人がいるのなら、それは止めるべきである。広く一般の人達の前で名を名乗った上では憚れるような行為は止めるべきである。その判断基準が自分自身というのが少々心元無いが、それでも自分に歯止めはかけられる。
自分の満足感や快感を取るか、周りへの気配りを取るか。 ん? なんだか某国前首相の靖○問題に似ているな。例えひとりでも不快感を感じる人がいるなら止めるべきである。
K泉さんが出来なかった事を中学生にやれと言っても出来る訳無いか。なんだK泉さんっていじめっ子中学生と同レベルの人だったのか。よくまあそんな人に政権を委ねていたもんだ。いくら規制緩和を推し進める為とはいえ。
皆がさっさと規制緩和を進めていればこんな人に政権を委ねなくて済んでいたのに。
永きに亘り行き詰った外交を元に戻すのは並大抵の事ではない。失ったものの大きさを知りそのツケを払わされるのは我々国民である。不登校となった4名のようにK泉さん自身にも自らが犯した事の痛みを感じて貰いたいものだ。


今の世の中、精神年齢が子供のまま親になってしまう人が多い。子供が子供を躾けなくてはならないのである。学校に躾を期待する親までいると言う。躾は親がするものである。幼児性の世代間の連鎖を断ち切る為にも若いお父さんお母さん方に期待したいものである。大丈夫!例え今はまだ子供と同じ精神構造でも、躾ける側に立てば自分も大人になれます。躾けられる側の子供が未熟な親を一人前の親に育ててくれます。
そして手に余ったら自分達だけで抱え込まず、近所のおじさんおばさんに相談しましょう。皆さん人生の先輩であり、お父さん業お母さん業の先輩でもあります。例えお付き合いのなかった人達でも気さくに助言してくれます。なんたって子供は国の宝ですから。