リレーションシップ

親が子供を虐待したり、子が親に反旗を翻したり、厭な世相である。
しかし果たしてうちは大丈夫か? と問われると、絶対に大丈夫と言い切れないのも事実である。
家族といえども自分とは別の人間である。今、何をどう思っているかなんて本当のところは解からない。解からないからこそ相手を思い遣る気配りが必要になる。「親子の間で何を気兼ねする必要があるのか。」と思われる方々もいらっしゃるでしょうが、これは気兼ねではなくやはり気配りだと思う。相手の事を好きであれば、その人にとって何が最善かを考える。結果として相手のためになることをする事になる。場合によっては思い通りにならない事もあるが、相手のためにと思ってした事は相手にも通じているものである。


我々夫婦は子育てのプロでもないし、亭主、奥方のプロでもない。いつも行き当たりばったりの試行錯誤の連続である。取っ組み合いの夫婦喧嘩もするし(最近はお互い元気が無くなってしまったなあ。)子供に当り散らしたりする事もある。
それでも持ち堪えて来れたのは、お互いが大好きで相手の為に良かれと思う事をしてきたからだと思う。


家族に限らず、人と人との関係って毎日積上げて行くものだと思う。崩そうと思ったら一瞬で終わってしまう。毎日積上げるのは大変な事かと言うとそうでもない。そう、相手を好きでいれば良い。無理に好きにならなくても毎日接していれば自然に好きになっている。好きであれば、相手の為に良い事をしたくなるのは人の常である。この良循環が友人、隣人、はては地域の人達との間で共有できれば世の中全てHappyな筈なのだが。


家族内のいさかいは、子供の側に問題があった訳では無い。子供なんて親を見て育つものである。子供の側に問題が出来たのならその原因を作ったのは親である。最近はきれやすい子供が多いと聞く。それとて親がそうしてしまったのである。親というのは大変な責任を負っているものである。はたして我家は大丈夫だろうか。この問いは親でいる限り常に自問していなければならないもののようである。


子供に「勉強しろ。」と言う親。私はこんな親は大嫌いだ。「子供に言う前に自分がしろ。」と言ってやりたい。
子供の学校の成績を叱る親。これは叱っているのではない。単に怒っているだけだ。「自分はどうだったんですか?」と嫌味のひとつも言ってやりたくなる。
子供といえどもひとりの人間である。他人を押しのけてでも上手い事をする人間になってもらうより、たとえ縁の下の力持ちでも良い、世の為人の為になり、それに喜びを感じられる人間になってもらいたい。