日本人と村人A

先日あることがきっかけで、日本人特有の厭な面を見てしまった。
何か意見を言う時に、「皆がそう言っている。」或いは「こう思っているのは自分だけじゃない。」と言うのである。
「皆って誰?」と問いただしても固有名詞が出てくる訳じゃない。皆じゃなくて「自分がこう思っている。」と何故言えないのだろう。不特定多数を隠れ蓑として無責任な事しか言えない人のなんと多い事か。それこそ学芸会の端役の村人A、村人Bである。
暴走族などの若者に特に顕著で、若さゆえの臆病さからかと思っていた。
ところが分別盛りの中高年にも意外に多いのである。
Net流行りの昨今、BBSなどへの書き込みでも無責任な悪口雑言が横行している。(【あらし】と呼ぶそうである。)プロバイダーが提供している掲示板でもこの【あらし】のせいで閉じてしまう所も多い。
自分が誰か知られる事はない。という安心感からか無責任非常識な悪口を書き込むのである。一般社会では「人に見られると恥ずかしいから。」という気持ちが馬鹿な行為を自制しているが、人に見られていないとなると罪悪感を感じる事もなく平気でやってしまうのである。本当に卑怯な連中だがNet上では日常茶飯事である。情けない事だ。
精神的に未熟な若者ならまだしも中高年の域に達した人にも同様の人達がいるようだ。返ってこちらの方が始末が悪い。
中高年というと社会的にもある程度地位の高い処に居り、いつも周りからチヤホヤされる事が多い。いつしかそれをあたりまえと感じてしまうようになるのだろう。周りの若者達が陰で何と言っているのかも知らずに…。横柄な態度を採っても窘められる事もなく、気付かぬ内に傲慢を絵に描いたようになって行く。そして自分の傲慢さに全く気が付かないのである。自覚していないだけに若者よりも始末が悪いのである。そしてこの年齢、頭の働きも鈍くなってくる頃であり、客観的に自分を見つめる事が出来ないのである。…この辺りは自分自身の事も言っています。
こんな状態なので人に反対意見を言われると頭に血が昇ってしまいみさかいが無くなってしまうのである。
それには日本固有の文化が大きく影響しているように思う。単一民族、単一言語、ほぼ似通った文化と生活習慣。多様性が認められないのである。「あなたはそう思っている。しかし私はこう思う。」とお互いを認め合う事が出来ないのである。反対意見を言われると自分の全てを否定されたと思い、反撃の為ならどんな非常識な事でさえもやらかしてしまう。被害妄想とでも言うべきか。
それと地理的要因。狭い島国、小さな村にも大勢の人が暮らしておりひとりひとりの顔が見えない。だから村人A、村人Bで済んでしまう。「顔を見られていないなら悪さをしても咎められない。」という心理が働く。こんな状況が何世紀も続いた結果、ひとつの日本的文化になったのではないか。そして、「皆がそう言っている。」「こう思うのは自分だけじゃない。」と言うようになったのではないか。


海外へ行くとよく感じる事がある。土地が無茶苦茶広いのである。あの地域に住んでいるのはJhoneさんしか居ない。隣にはTomさんが住んでいるが車で30分の距離である…。
広い所に少人数しか居ないと村人A、村人Bでなく固有名詞でJhoneさん、Tomさんと呼びその時には顔も思い浮かべている。物陰に隠れてコソコソなんて出来ないのである。何か共同でやろうとしても個人個人全員が参加しないと出来ない。日本のように、「俺ひとりくらいさぼっても解りゃしない。」なんて考えが出てくる余地がないのである。
日本には昔から【お上】と言う言葉があり、政治はお上がやってくれるもの。自分達の為に必要な工事や便宜もお上が与えてくれるもの。という考えがある。やってくれないからと文句は言うが、良くする為にはどうすべきか、は全く考えもしない。
Jhoneさん、Tomさん達は自分達でやるしかないのである。いきおい政治にも全員参加となる。
つくづく日本には民主主義は根付かないな、と思う。今の民主主義も所詮は米国から与えられたものである。自分達で築いたものではない。
そして、物陰に隠れて他人を誹謗中傷する輩がいる限り、真の民主主義とはならないだろう。


Net上のBBS、真の民主主義国家となる為、使い方によっては国民の意識変革にはとても良い道具だと思う。
意見を述べる時には必ず自分のメールアドレスを入れて。自分が誰であるかを名乗る事で、自分の発言に責任を持つようになる。当然非常識な言動は無くなる。掲示板での議論が適切でなければお互いメールで議論すれば良い。
こうやって互いに相手の顔を見、多様性を認めあうようになれば世の中どんどん良くなるように思うのだが…。


戦後一時期アナーキズムが芽生え始めた事があるそうです。よく暴力的革命と誤解されていますが、無政府主義というのは民主主義の原点です。政府への権力集中から弊害が起こり、まかり間違えば無意味な戦争にもなりかねない。生活者ひとりひとりが参加して政府なしで生活して行こうというものです。夢のまた夢かもしれませんがNetによる全員参画…地域毎の自治ならうまくいくかもしれません。