ラッセル

夕日は赤々、シュプール染めて。
辿る雪道、果てさえ知れず。
街にはチラホラ明かりが点いた。
ラッセル急げや、おおシーハイル。


ご存知シーハイルの歌の一節。
鈴鹿の山もだんだん雪が少なくなりかけているようです。
もうこれからは、積もるより融ける方が多いでしょう。
この季節になると何かもの悲しいような気になるのは私だけでしょうか。
もう少し経ち、陽気も良くなり春を実感出来るようになると反対にうきうきしてくるのですが。


山でのラッセルに四苦八苦しなくてもよくなるのは楽には違いないのですが楽しさも味わえなくなり、そこにものの哀れを感じるのでしょうか。


ところでこのラッセルという言葉、鉄道の除雪車からきていると推測していますが、そのラッセル車の語源はやはり人の名前なのでしょうか。
山でラッセルという言葉を耳にするたび、どういう訳か英国の哲学者バートランド・ラッセルを連想してしまいます。
合宿中テント内でよく歌った冒頭の歌詞も、歌うたび聞くたび、かの哲学者を思い浮かべていました。
何故かって? 彼は私が最も尊敬している一人なのです。
若い頃の一時期、精神的に病的だったのかいつも死について考えていました。何のために生きているのか? これが頭から離れず何かにすがるようにいろんな本を読み漁ったりしていました。
その頃に出会ったのが、ラッセルの懐疑論です。
元々、人から聞いた事を素直に信じる事が出来ず自分なりに確かめない事には気が済まない性格であり、それを短所と見ていたのに逆に長所と見る事に大きな衝撃を覚えたものでした。
デカンショに代表される過去の著作になにかしら納得できなかった頃に出会った一冊は、心のもやを払拭し生きる希望をも与えてくれたように思います。
そして幸福論、結婚論等貪るように読み漁った事を覚えています。
しかしこれらの著作は有名には違いありませんが、彼の本来のライフワークとは別のものなのです。
Bさん所蔵の近代哲学全集の中に彼の【数理哲学入門】を見つけ、貸してもらったのは良いのですが、凄く難解な著述で数行読むと熟睡ができるというものでした。
自前で買う本は数百円の文庫本ばかりだったのに対しこの本は秩入りの立派な装丁でした。この本、実はまだ借りたままになっています。30年も借りっぱなし。本って借りた側はすぐ忘れますが、貸した側はしっかり覚えているものです。今度御返ししなくっちゃ。